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 依存性の高い睡眠薬はいつの間にか自分に効かなくなっていると思い込んでいた。だから、この数か月は処方された薬も服用せず、溜め込んでいただけだった。どうせ眠れないのなら、薬を飲まないほうがましだった。
 だけどこの感覚を知っている。泥の中から無理やり意識を引き出されるような感覚、不自然な呼吸の苦しさ、纏わりつく匂いに新一は指先をぴくりと動かした。
 開かない瞼の裏側に見た景色は、ずいぶん昔の景色だった。広がる夕焼け、ランドセルの革の匂い、無邪気に続く声。視線を横にやれば、いつも自分を案じてくれた理解者。――灰原哀の姿。
 なぜ自分はまだ生きているのだろう、と新一はゆっくりと息を吸う。緑茶に仕込まれた睡眠薬で眠らされた自分は、石岡が持っていたバタフライナイフで刺されているはずだった。数回咳払いをし、新一はようやく重たい瞼を開けた。お世辞にも綺麗とは言えない部屋の中、足の踏み場もないカーペットの上には、石岡が転がっていた。

「い……しおか、さん?」

 新一はゆっくりと起き上がる。霞んだ視界を戻すように目をこする。

「石岡さん……」

 血の匂いが鼻についた。石岡の顔が分からなくなるほど、首より上は血で濡れていた。石岡が握ったままのナイフを見て、新一は現状を知る。

「どうして……」

 新一は身体ごと引きずるように、動く。石岡に触れて脈を確認するが、冷たいその体はもう息絶えている。どう考えても手遅れだった。カーテン越しから入って来る光はわずかで、日が暮れようとしている。自分が眠っていた時間は短くない。
 こんなつもりじゃなかった。新一は混乱する。探偵の勘が研ぎ澄まされただなんて、茶番もいいところだ。真実を知りたいという理由を掲げて、自分は一体何をやっていたのだろう。
 目の前に転がる死体は、石岡のものだけではない。これまで新一が関わってきた数々の命が積み重なる。救えなかったのは命だけではない、多くの加害者も闇を抱えていたはずだった。石岡のように。
 その真実を掲げたところで、結局何も救えない。体調不良を理由に探偵業を辞めた時、新一は心のどこかでほっとしていたのだった。もう二度と人の生死にかかわる必要はないと勘違いしていた。
 しかし、生きている限り、それらから逃げる事はできない。未来は限りのあるものだ。新一は床に置きっぱなしにしてあったコートを手に取る。ポケットの中に手を突っ込んで、スマートフォンを取り出す。一緒に入っていた薬のPTPシートも一緒に手のひらからこぼれた。この数か月間、服用もせずに溜め込んでいた睡眠薬だった。
 また眠らなければ。
 この悪夢を終わらさなければ。
 混乱した脳の中で悲鳴があがる。新一は無心に薬をシートから取り出していった。ぷちぷちとシートがはがれて、白い錠剤が床に落ちていく。十錠、二十錠、もっと多くなる頃には錠剤がカーペットに山を作る。形のそろった無秩序な塊を、新一は片手で掬いあげて口に放り込んだ。口腔内で崩壊されるそれは、コーティングされた甘みと苦みを残して溶け、食道を伝っていく。
 やがて訪れるめまいと寒気に、新一は血で濡れた手でコートを抱きしめる。
 よかった、と新一は思う。これできっと誰も悲しませる事もないし、自分が苦しむ事もない。先の見えない海の中のような冷たい場所を彷徨う心から、思うように機能しない自分自身の体から、やっと解放されるのだ。