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 探偵だった頃の勘が、鋭く神経を研ぎ澄ましているようだった。警察の資料と新一自身の調査で、新一は容疑者を絞り込もうとしていた。
 この一年間のうちに退職したスタッフの一人。新一は与えられた情報を頼りに、自宅へと向かう。今日は日曜日だが、不在であれば明日調査すればいい。明後日でもいい。あんなにも不安に思っていた時間が無限にあるという事実が、今は武器にも思えた。
 二月の午後の空は快晴だ。コンビニのガラスに貼られたポスターを見て、もうすぐ世の中ではバレンタインが訪れる事を知る。冷たさが鼻の先を刺激した。
 最寄駅から徒歩二十分。すでに事務所を畳み、無職である新一は安易にタクシーも使えない。目的地に着き、四階建てのマンションを見上げた。周囲は錆びたシャッターの閉まった商店が立ち並んでいる。オートロックが設置されていない古びた賃貸マンションの、外付けの階段を一歩一歩のぼってたどり着いた時には息も絶え絶えだった。呼吸を整え、目当ての部屋の前に立つ。表札には「石岡」の文字が印刷されたシールが貼られていた。
 チャイムを押すと、中から出てきたのは無精ひげを生やした三十歳前後に見える男だった。

「急にすみません。工藤新一と申します」

 新一が昔使用していた名刺を差し出すと、それを受け取った男は名刺と新一を交互に見て、瞬きを繰り返した。

「四か月前までH病院で働いていた石岡さんですね」
「……そうですが、何か?」
「アポもなしに失礼を承知しています。先日から続いている殺人事件について、お話を聞かせて頂けますか」

 新一の事を認識しているのだろう、石岡は不安そうに新一をじっと見た後、ドアを大きく開けて新一を招き入れた。



 ワンルームの部屋は、お世辞にも綺麗にしているとは言い難かった。玄関からすぐの場所にあるキッチンのシンクには使用済みの食器が重ねられ、部屋の中には空のペットボトルが散乱していた。暖房はつけられていないのか、部屋の中は日が差していた外よりも寒く感じる。
 気の利いた飲み物もなくてすみません、と石岡はリモコンや積み重なった本で表面積が少なくなっているテーブルに湯呑を置いた。

「オレは逮捕されるんですか」

 唐突な言葉に、新一はコートを脱ぎながら苦笑する。

「僕はただの探偵なので、逮捕する資格を有するわけではない。ただ真実を知りたいだけです。」

 本当にそうだろうか。この行動は、自分を満たすだけの自分勝手な行動にすぎないだろうか。急降下しそうになる自分の中に生まれていた高揚感をどうにか失わないように、新一は湯呑の置かれたテーブルの前に座った。

「石岡さん。現在お仕事は何を?」
「……無職です。退職金ももらったし、貯金でどうにか繋いでいます」
「失礼ですが、退職した理由をお聞きしてもよろしいですか」

 石岡は、探るように新一をじっと見つめた。湯呑からあがる湯気を追っているようだ。視線に気づいた新一は、湯呑を手に持つ。程よい温度が手のひらに伝わり、無意識に息をつくと、石岡はおもむろに口を開いた。

「体調があまりよくなくて……。正直、激務だったので」
「そうですか」

 そう言って、新一は緑茶を口に含んだ。ぴりりとした刺激が舌先に走り、新一は思わず咳込む。

「工藤さん? 大丈夫ですか」
「……すみません。僕も、体調不良を理由に仕事を辞めたので」

 口の中に残る苦みを紛らわそうと、新一は苦笑をこぼす。事件の参考人、しかも容疑者の一人に言っていい話ではないはずだった。どこかおかしくなっているのだと思う。

「仕事を辞めた? 今こうして働いているじゃないですか」
「そうですね。でも、名刺を差し出しておいて申し訳ないですが、事務所はもう畳んでいるんです」

 カーテンの閉め切った部屋から、窓の外は見えない。新一は部屋の中を視線だけで見渡す。石岡の体調不良というものがどんなものか、考える。足を組み直そうとカーペットの上に手をつくと、指先に何かが当たった。
 薬のPTPシートが輪ゴムで束ねられていた。銀色に印字された医薬品名に気付き、新一は思わず凝視する。

「工藤さん、何かありましたか?」
「いや、特に……」

 目の前の男は自分と同じかもしれないと思う。心も身体の中の一部だ。石岡が病院を退職した理由。

「石岡さん。元勤務先ではさぞかしよく働いていらっしゃたのでしょう」

 どこかから時計の音が聞こえる。しんと冷たい空気に混じるそれは、少しずつリズムを狂わせていく。

「心を病んでしまうような状況がそこにあったのなら、行政や弁護士に相談して、治療に専念して、再起する方法はあります」

 目の前がぐらぐらと揺れる。この感覚を新一は知っていた。

「そんなお金、僕にあるように見えますか」

 テーブルを挟んで新一の前に座る石岡が、あざ笑うように言い放った。

「それに、大変だったのは僕だけじゃない。僕よりもずっと……、過酷な労働をしていた人だって」
「―――だから殺したんですか」

 かすれる声を絞り出すようにして、新一は言った。石岡の目が大きく見開かれる。

「H病院で働いていた医師、看護師、理学療法士、計四名を殺害したのは、あなたですね」

 新一の言葉に、石岡は最初から分かっていたのか、ふっと力なく笑った。

「……そうですよ。オレがやった。あんな無茶苦茶な働き方をして悲鳴をあげてた人達を、オレが助けた」

 艶もなくなった無造作に伸ばされた髪ごと頭をガリガリ掻いた石岡は、立ち上がり、ベッドの横にある棚の引き出しに手を伸ばした。
 新一はその姿をただ見ていた。身体に力が入らず、立ち上がる事すらできない。そもそも容疑者に差し出された飲食物を口に含む事はあってはならない。新一は、どこかでこうなる事を期待していたのかもしれないと思う。

「工藤さん、あなたが座っている場所にあるその薬は、ドーパミンやセロトニン等を作動する、精神疾患の薬です」

 石岡は引き出しから何かを取り出したようだった。手で持った銀色の棒状のそれが何なのか、新一はぼんやりとした頭で考える。

「工藤さんも、オレと同じでしょう? 死ぬほど働いて、働いて、おかしくなったんじゃないですか」
「……ちがう」

 座っている事すら難しくなり、新一はすぐ後ろの壁によりかかるように倒れた。緑茶を口に含んだ瞬間から気付いていた。それでも、どうでもいいと思ってしまった。
 石岡が自分に睡眠薬を飲ませたところで、真実さえ知れれば、それでどうでもよかった。捜査し始めた昨日に得た高揚感は、一時的な幻だったのだ。

「俺は、違う……」
「そうですか? 以前雑誌か何かで拝見した時よりも、ずいぶんとお痩せになったみたいですが」

 石岡は右手を捻るような動きを見せた。その動きで、石岡の手にあるものが開かれたバタフライナイフである事に新一は気付く。
 石岡の言う事の全てが正しいわけではない。ただ一つだけ言えることは、新一も石岡と同じ薬を服用していた。巷でよく聞く病名を医師に告げられ、ちょっとした心の風邪です、とあしらわれた。それが本当の風邪のようにすぐに完治するわけもないのに、気の持ちようだとすら言われた。深い場所に潜り込んだ日々、出口は見えないままなのに。
 石岡が自分に酔ったように饒舌に何かを話し始めている。しかし、もう歪んだ聴覚すら働かず、頭の中で自分の声が響く。――これでようやく眠る事ができる。声にうなずいた新一は口元に笑みを浮かべ、意識を手放した。