そこに突っ立ったまま、どのくらい時間が経っただろうか。
「あれ、姉ちゃん?」
病棟の奥から歩いてきたのは、スーツ姿の服部平次だった。服部は受付で面会終了の手続きを済ませ、哀に近づく。
「どうしたんや? 早よ行かな、面会時間ももう終わるで」
スーツの袖口から見えた腕時計を示す服部がここにいる理由に、哀は合点がいった。首を横に振り、うつむく。
「私は、工藤君に面会謝絶されているみたい」
言葉にすることでその事実が重くのしかかり、哀は胸に抱えていたトートバッグを両手で抱きしめた。病棟内で音楽が鳴り始める。午後七時、面会終了の合図と、食事の配膳の合図だ。
「あー……、そういうわけか……」
納得した表情を浮かべた服部は、嘆息した。おそらく彼は新一に頼まれて、着替えなどを準備してきたのだろう。
「姉ちゃん、ここはそろそろ撤退や。飯でも行かへんか?」
服部がスーツのポケットから車のキーを取り出し、哀に見せる。哀は力なくうなずいた。新一に拒絶されてしまった今、一人でいたくなかった。
連れられてきたのは駐車場のあるファミレスだ。外灯が放つ光には羽虫が群がっている。遠くで鳴る虫の音が車のエンジン音にかき消される、郊外の秋の音だ。
「ちゃんと話をせなあかんと思ってた」
店員に案内された四人掛けのソファー席で哀の前に座った服部は、神妙な表情を浮かべてそう切り出した。
「八年前の冬、当時二十三歳だった工藤がとった行動についてや」
哀はテーブルに置いてある水を一口飲み込む。冷たい液体が、空っぽの胃の中へと流れ込み、吐き気を覚えた。
「工藤君が睡眠薬を過量摂取して、自殺をはかった話?」
その話について、哀は新一から直接聞いた事はない。そもそも新一自身、その頃の記憶を失っている。哀がそれを知ったのは、あの夏の日に送られた赤井からのメールでだ。
哀の容赦のない言い方に苦笑を見せた服部は、ひと呼吸を置いた後、重々しく口を開いた。
「工藤が勝手に一人で死のうとした、みたいな話が一部で広がっとるみたいやけど、ほんまは少し違う」
そこへ、店員がやって来て、服部と哀の目の前に器を置いた。注文していたメニューのセットのサラダのようだ。
「あいつがそれを決行したのは、ある事件の容疑者の自宅や」
ファミレス内の席のどこかから歓声が沸き上がり、誕生日を祝うソング店内のスピーカ―から流れ出した。食事中の客全体に祝福モードが訪れる中、哀は服部をまっすぐ見つめた。新一と同い年である服部の目元には疲労が漂っている。今日も仕事の合間にここまでやって来たのだろう。
「ある事件って? その頃の工藤君は、すでに探偵業を辞めていたはずだけど」
新一が事務所を廃業する手続きを取ったのは、新一が二十三歳の九月の時だ。そして、新一が自殺未遂をしたとされるのが、その五か月後だ。その頃の新一について、哀は詳しくは知らない。
「そうや。あの頃のあいつは、実家の部屋で死んだように生きとった。病気なんが発覚して、不眠になって、ますます外にも出られへんようになって……。それで、俺が声をかけたんや」
ハッピーバースデーソングが終わり、店内の雰囲気が元に戻る。どんなに盛況な事があっても、それが過ぎ去るのは一瞬だ。
「その頃の俺はまだ警察官で、でも高校生探偵だったっちゅー驕りから、ある事件解決のために片足を突っ込んでいたんや。工藤をどうにかしたいって思って、工藤に捜査協力を頼んだ」
再び店員が現れ、服部にはステーキを、哀にはクリームソースのパスタを置いていった。服部の目の前にあるステーキが鉄板の上で空しく香ばしい音を立てる。
「俺が……、俺が捜査協力を頼まんかったら、あんな事にはならんかった」
運ばれてきた料理に見向きもせず、服部はうつむいた。膝の上で拳を握り締めているのか、肩が震えているのを、哀は黙って見ていた。
「あいつが自殺未遂をした状況を、俺が作った。……俺のせいや」
やがて鉄板からの音が消え、周囲の雑音が席へと舞い込んで来た。料理からあがる湯気を、哀はぼんやりと見ていた。
服部にアパートの前まで車で送ってもらい、哀は錆びた階段をのぼる。しんと冷たい空気に響くその音が、悲しみを誘った。
玄関の重たいドアを閉め、鍵をかける。昨夜、新一が吐血をした時からずっと気を張り詰めていたからか、今になって疲労感が押し寄せてきた。
トレンチコートを脱ぎ、トートバッグを床に置く。今朝洗ったシーツが洗濯機に入れっぱなしであった事を思い出し、哀が蓋を開けた拍子に、つい先ほどに聞いた服部の声が耳奥で響いた。
『あいつは姉ちゃんにした事をずっと悔やんどる。あいつの願いは、姉ちゃんを解放して、自由にする事や』
入院している新一が面会拒絶をした理由。哀は洗濯機に両手をついてうつむく。中にある濡れたシーツからはお気に入りの洗剤と柔軟剤の香りが漂った。
「私は、そんな事を望んでいない」
思わず声に出すと、思いのほか狭い脱衣所の中で響いた。
「……工藤君は何も分かっていない」
あの夏の日。突然の出来事で哀の脳は追いついていなかった。軋む体と、知らない顔をした新一に対して、戸惑っていた。
だけど、新一に触れられた事が嫌だったわけじゃない。だから哀は再びここにやって来て、どうにか二回目という既成事実を作った。哀を手荒く抱いたという新一の罪悪感を利用して、哀は無理やり新一の部屋に住み込んだ。ストックホルム症候群が効いているのだとしたら、むしろ新一のほうだ。
沸き上がる感情を誤魔化すように、哀は湿ったシーツを手に取る。新一が吐いた血の染みは取れていない。洗剤の香りが鼻にさわり、哀はシーツを放り投げてトイレへと向かった。
急にこみ上げてきた吐き気を逃すように、便器に向かって嘔吐する。先ほどのファミレスでは食事をする事ができなかった。胃の中にはほとんど何もないはずなのに、哀は胃を押さえながらひたすら咳込んだ。
血の匂いがこみ上げる。気づいた時には、便器の中は真っ赤に染まっていた。