お気に入りのレースのカーテン越しに柔らかな朝日がベッドを照らす。なんとなくその光に気付いていながらも、志保が目を閉じたまま惰眠を続けようと寝返りを打つと、キッチンの方で物音がした。思わず目を開ける。その目はその眩しさに慣れず、志保は目を細めたまま視線を動かす。隣にあったはずの気配がない。
「悪い。起こしちまったか?」
声とともにキッチンのドアを開けた新一が、悪気のない笑顔で志保を見下ろした。狭いワンルーム、たった数歩で新一は志保のいるベッドへ辿りつく。
志保は布団にくるまったまま新一がジャケットを羽織る動作を眺め、ぼんやりと思考を巡らせる。
「…今日、休みって言ってなかった?」
「ああ、そのはずだったんだけど。急に仕事が入っちまって」
スーツ姿を決めた新一がベッドに近寄り、志保の髪の毛を撫でる。その指はどんな時も優しさを持つ。志保が泣いた時も、昨日のように熱く触れ合った夜も。
「悪いな。今度埋め合わせする」
囁いた新一が志保の頬に唇を寄せ、額に、鼻に、そして最後に唇にキスを落とす。思わず目を閉じてしまった志保は、唇が離れるのと同時に薄く瞳を開け、新一を睨んだ。
「別に…。そんなに観たかった映画でもないし」
嘘だ。本当は楽しみにしていた。映画もだけど、何より新一と出かける事を心待ちにしていた事に気付き、更に傷つく。そんな志保もお見通しのような顔で新一は再び志保の頭を撫でてから、今度こそ部屋を出て行った。
玄関のドアが静かに閉まり、志保はゆっくりと起き上がる。布団からはみ出した肩に冷たい空気が触れる。季節はもう秋だ。
怒涛の一ヶ月間を過ごした六月から、すでに一つの季節が過ぎ去っていた。
事件は世間に知れ渡り、志保は監禁された女性研究員として注目を浴び、一時期はマスコミから逃れるように生活をしていた事もあったが、ひと月も経てば世間の話題は移りゆく。あの頃が嘘だったように志保は普通に生活をしている。
突然予定を失った休日を持て余した志保は、コーヒーを淹れながら洗濯機をまわし、リビングのテレビを付けた。朝の報道番組では女性に人気の男性芸能人の電撃結婚ニュースをとりあげている。心なしか女子アナウンサーも悲しげな表情を浮かべているように見え、志保は苦笑しながらコーヒーをいつものマグカップに注いだ。
コーヒーを口に含んだ事で、ようやく身体の芯が温まり、頭が冴えてきた。そして、今頃になってドタキャンした新一に対して、責めるような感情が沸き上がり、志保はそれをかき消すようにもう一口コーヒーを飲み込んだ。
テレビではその男性芸能人が出演した映画が紹介されている。その多くは恋愛映画で、編集されたカット映像に映る彼は、とても甘い表情を視聴者に向けてきた。
志保はいたたまれない気分になり、リモコンをテレビに向けて電源を落とした。何か別の事を考えなければ、と部屋の端にあるパソコンに視線を向ける。仕事の事を考える。
――おまえが作ったものは確かに人を救うものだよ。
あの時。
自分の作ったものはいつだって人にとって害のあるもので、救われないと思ってた。失った時間を取り戻すように研究し続けた事を咎められたような気持ちで泣いた志保に、新一は救いの言葉をくれた。
だから今の志保は仕事を辞められない。あんな事があった会社に居続けて、自分の理論と理想を持って研究を続ける事を決めたのだ。
新一との関係性が変わってからも、志保自身の日々に大きな変わりはなかった。
お互い仕事を持つ身で、それも新一は有名な探偵だ。以前から時々噂を聞く事はあったが、実際近くで見ていても彼はとても多忙な日々を送っていた。一週間以上会えない事も珍しくはなかった。
それでも一定の時間を見計らったように、仕事の合間を縫って新一は志保の部屋に訪れる。その際、新一は他では見せないような甘い顔で志保に微笑み、志保に触れ、志保に甘える。その幸福感は想像以上に志保の心に入り込んできて、志保は戸惑っていた。
新一との予定をドタキャンされた休日から十日ほどが経っていた。あれから新一は更に忙しそうで、時折それを伝えるメールが届いた。
仕事の報告、志保の体調を気遣う言葉、彼の見た景色、それらのメールに何て返事をすればいいのか、言葉が浮かばない。
これまでテレビで流れる恋愛ドラマや巷で流行る恋愛ソングを、どこか他人事に思って馬鹿にしていたというのに、まるでその主人公に魂を乗っ取られたように、志保の胸が痛んだ。会いたい、なんてそんな感情は自分の中に存在しないと思っていたのに。
十年前を思い出す。
元の身体を取り戻してから志保は逃げるように阿笠邸を去った。それでも、一度だけ新一を見かけた事がある。
とても寒い冬の朝だった。志保は入ったばかりのチームで研究に明け暮れる日々で、研究所に泊まってからマンションに帰る途中だった。その日、どうして彼らがそこにいたのか志保は知らない。
新一とその幼馴染が寄り添うようにして歩いていた。寒さから逃れるように、少しでも二人で温もりを共有するように。
ああ、よかった、と思った。選んだ未来は間違っていなかった。仕事に疲れた頭で、濁りのない空の下で志保はただぼんやりと突っ立って二人の後姿を眺めた。二人の身長差は記憶よりも大きく開いていて、新一が解毒剤の影響も受けずに身長を伸ばしている事をうかがえた。以前よりも大きく見えるその背中が更に隣の幼馴染に近付き、大きな手の平が長い黒髪に触れる。
彼が幸せならそれでいい。そう自分に言い聞かせながら、目の前に広がる仕事の充実感で誤魔化しながら、飲み込んだ感情がある。
あの手に頭を撫でられたらどれだけ幸せだろう。
選んだはずの未来はどこかで歪み、志保はその手を自分のものにしたはずだった。
再会してから数か月、何度も触れたし、何度も触れられた。彼の隣の場所を手に入れれば幸せだと信じて疑わなかった。なのに、どうして虚無感が襲ってくるのだろう。
仕事帰りの電車の中で、志保はため息をついた。手に持った携帯電話から逃げるように視線を上げると、車内に吊られている結婚式場案内の広告が視界に入る。自分に縁のなかったはずの物事が近寄ってきている事に、恐怖すら感じた。
今更普通の人々の中の平穏に溶け込めるはずもないのに、持て余す感情だけが志保を支配して行く。うまくメールの返事をできないままだ。
電車を降りて、いつもの帰路を辿って行くと、マンションの前に悩みの種がそこに立っていた。
「…工藤君?」
志保の声に、携帯電話をいじっていた新一が顔を向けてくる。
「おかえり。遅かったんだな」
「………」
こういうことは初めてではない。志保は合鍵を渡す事もしないし、新一もそれを求める事もない。何のために携帯電話があるのかと呆れてしまうくらい、原始的な方法で新一はこうして時々志保の帰りを待っている。
「おまえが返事くれないから、来ちまった」
「…私が返事をしないことくらい、珍しくないでしょ」
思わず憎まれ口を叩く。そんな志保に新一はいつものように微笑み、志保の頭ごと抱き寄せるようにして耳元で囁く。
「知ってる」
優しい声色に、ぞくりと心が震える。思わず泣きたくなる。
「この前はドタキャンして悪かったよ」
そんな事、たいして反省していない癖に。
新一の肩に顔を押し付けて、志保は目を閉じる。
そんな言葉が欲しいんじゃない。だって新一は知っている。先日の約束が流れた事を怒っているわけじゃない。もっと根本的な、志保の心の中に棲んだどうしようもない欲を見透かされているようで、志保はそれがとても怖かった。
嫌わないで。
まるで陳腐な恋愛歌詞にありそうな言葉が脳裏に浮かび、笑いたくなった。
彼に幸せになって欲しかった事に嘘はない。そのくらいとても大切だった。彼の為に生きたと言っても過言ではない。家族以外にそんな存在は初めてだった。
大切なものほど壊してしまいそうで、志保はいつも距離感を掴めない。本当はいつだって声を聞きたいし、毎日だってその笑顔を見たい。そんな子供じみた感情をどこに抑えていいのか分からず、それは少しずつ心に穴を作って行った。
平穏な生活、大切な人と過ごす時間、それを手に入れればもう他に何もいらないと思っていたのに、欲は止まる事を知らない。
そんな志保にお構いなしで、新一は何食わぬ顔で志保の部屋に上がり込む。部屋のベッドに寄りかかって座り、メールに書いてあった内容を他愛もなく喋り出す。志保は気まずさから逃げるようにキッチンでコーヒーを淹れる。
誰も入る事のなかったテリトリーに新一がいる。それは奇跡に近い事だというのに。
「志保」
志保がマグカップをテーブルに置くのと同時に、新一が志保の髪の毛に触れる。その眼差しには光が伴っていて、志保は眩しくて視線を逸らす。
すると新一は不貞腐れたように更に志保に近付くから、もうどうしたらいいのか分からない。
「志保の事、話して」
座ったままの新一に抱きしめられ、志保は見動きが取れない。少しずつ室温が低くなってきている事を感じる。足先は冷たいのに、顔は熱い。
「…私の事って」
「何でもいい。メールが難しくても、話す事はできるだろ」
「…別に、話す事なんて何も」
新一の胸元に耳を寄せると、トクトクと血管が脈打つ音が聞こえる。体温の通った音だ。何よりも安心する。少しだけ穴が塞がれる。
「嘘だ」
低い声で新一が短くつぶやき、志保は身をよじらす。でも新一の力は強くて、志保はやっぱり動けない。
「俺は女心に敏感ではないけれど、おまえが何かを不安に思っている事くらいは分かるよ」
新一の指が志保の髪の毛に触れ、それを耳にかける。ずっと触れられたかった手。こんなに近くにいるのに、こんなに新一は優しいのに、どうして満たされることがないのだろう。恋は人を強くするものだと思っていたのに、今の自分はとても不安定な場所で足掻いている。
どうして彼と自分は別の人間なんだろう。別々の個体として存在する限りこの虚無感は消える事はないのだと、志保は悟った。
こんなにも欲深い自分を嫌わないで欲しい。言葉にすることも出来ず、涙が溢れる。きっと新一は困っているはずだ。そう思い、顔をあげると、予想通り眉根を寄せた新一がじっと志保を見つめていた。
「志保、俺の事が好きか?」
どこか張りつめた声に、もしかしたら自分は彼に気持ちを伝えた事がなかったのかもしれないと気付く。
「好きよ」
思ったよりもすんなりと出た言葉に、志保自身が驚く。そんな志保の様子に新一は可笑しそうに笑い、志保の唇に触れるだけのキスをして、顔を近づけたまま、いつも真実を暴くその瞳で志保を見つめた。
「結婚しようか」
その瞳に捕えられたらもう逃げられない。
電車の中の吊り広告を思い出し、志保は混乱した。新一の腕の力が弱まったのを感じ、志保は少しだけ新一から離れて隣に座り、同じようにベッドに背を預けた。
途端に体感温度が下がった。
「結婚なんてさ、ただの契約って思ってるんだけど。でも一緒にいられる理由にはなるよな。何かあれば必ず優先できる。法律がそれを守ってくれる制度だよな」
世の女性達が夢見る聖なる儀式に対して、新一の物言いはどこまでも現実的だ。だけど、むしろそれが志保を安心させた。
新一と付き合い始めてから考えた事がなかったとは言わない。でもどこか現実味の帯びなかったので、志保は今もその言葉を信じられずにいる。
「ねえ。今のって、プロポーズ?」
志保の問いに、新一は顔をくしゃりと崩して笑った。
「他に何があるんだよ?」
「…ずいぶんロマンのないプロポーズね。気障だった高校生探偵が、聞いて呆れるわ」
「おまえなぁ…」
新一はうなだれるように力を失くし、志保にしがみついた。新一の髪の毛が志保の首元に触れてくすぐったい。
「なぁ、どうやったらおまえは安心する? 俺はこんな仕事だし、いつもおまえを不安にさせているけれど、国の制度に頼ってでもおまえを守りたいんだよ」
真剣な声に、今度は志保が言葉を失う。
やっぱり気付かれていたんだと思った。それでも新一は更に志保に近付いてきてくれる。志保の欲を知っていて、志保を守ろうとしてくれる。そのまっすぐな心は、元々犯罪組織にいた志保を守ってくれた頃と変わらず、たまらなくなって志保は新一を抱き返した。
志保が新一を望めば、新一は応えてくれる。それを愛と呼ぶのなら、こんなに心が痛くて苦しい喜びを他に知らない。
「ねえ、私の事を好き?」
同じように志保が訊ねると、新一は困ったように顔を上げ、返事の代わりにもう一度志保にキスを落とす。目を閉じればほんの少しだけ未来が見えた気がした。
タイトルはmiwaの曲から頂きました。
(2015.12.12)