5-6

 その後、日本を代表する大企業の幹部が、グループ会社の薬を不正取引していた薬機法違反の容疑と、更に拉致監禁の現行犯で逮捕されたとのいうニュースが世間を賑わせた。誰もが知る企業というだけでもスキャンダルな出来事だが、監禁した相手が自社の研究者というのだから、推測も伴って一部の報道は過熱化している。
 いつもと変わらない景色の夕方、信号が変わるのを待っている間、携帯電話で更新されているニュースを見ながら新一は嘆息した。
 世の中が騒ぎたてても新一の生活は変わらない。相変わらず仕事は舞い込んでくるし、仕事の質も変わらない。それでもあの日、帰りのタクシーで握った志保の指の冷たさを手の平に思い出す。
 何かを堪えるように無言のままの志保に対して、新一は弱り切った小さなその身体をただそっと抱きしめるしかできなかった。
 舞い込んだ依頼がこのような形で終結するなんて誰が想像しただろう。過去に捕われ、自責の念に苦しんだ彼女がようやく一つの夢を叶えようとしていた居場所を、新一が奪ってしまった。
 真実を掴んでそれを表沙汰にすれば、関係者の生活が一変するのだ。
 現に、志保はホテルで生活を送っている。監禁された悲劇の女性研究者が世間から好奇視線を注がれているのも事実だった。そんな場所に志保を一人放り込むわけにはいかない。新一は志保に少しでも不便のないように、上等なホテルの部屋を準備していた。
 あれから三日が経ち、今日志保は警視庁に事情聴取に赴いているはずだ。腕時計を見ながら新一はホテルへと向かった。予想通りこの事件を解決されたとされる新一も注目を浴びてしまい、工藤邸の前を記者にマークされてしまったので、志保の部屋に雲隠れしている状態だ。
 なのに。

「こんにちは、工藤さん」

 慣れた足取りでホテルのエントランスを入ると同時に、ロビーから聞き覚えのある声に新一は振り向き、目を見開いた。

「…ヒトミ?」
「やだ、馴れ馴れしいな」

 おかしそうに笑うヒトミは、クラブで会う雰囲気とは違って、白いシャツにデニムのパンツの姿だ。だからこそ上手くカールされた長い金髪が浮いて見えた。

「何の用だよ?」

 新一が低い声でヒトミを睨むと、ヒトミはほっと息をついてからソファ立ち上がった。

「一言、謝りたくて」

 新一を見つめるヒトミの視線はまっすぐで、澄んで見えた。高いヒールのせいか、志保よりも小柄のはずの彼女が大きく見える。

「あたし、あなたを見くびってたからさ」
「…何の話だ」
「宮野志保を連れて行って、ごめんなさい…」

 彼女も事情聴取を受けたはずだ。彼女が罪に問われる対象なのか、そんなことはどうでもいい。アイとヒトミがあの場所でどんな会話を交わしたのか、新一は今更知ろうとは思わない。

「俺は関係ねーし、謝りたいなら本人に謝れよ。ここにいるってことは、あいつの事を今でもお見通しなんだろ」

 うんざりしてエレベーターホールに向かおうとすると、

「だって、あなたはあの子を好きでしょ?」

 ヒトミの言葉が新一を呼び止めた。新一が振り向くと、ヒトミは柔らかく微笑んだ。あの大企業の社長の愛人。ここまで報道が大きくなれば社長もただでは済まないだろうし、最悪辞任も考えられる。
 彼女も何かを失ってしまう事は必至だ。しかし彼女からはそのような哀愁は漂っておらず、むしろ何かをふっ切ったような表情にすら見えた。

「あの子に伝えてよ。あたしもちゃんと前に進むって」

 ヒトミは最後まで完璧な笑顔で、手を振りながら華麗にホテルを出ていった。
 クラブで嗅いだお香の香りが少しだけ残った。もう二度と彼女に会う事はないはずだ。今度こそ新一はエレベーターホールへ歩いた。革靴が床に触れる音がやけにうるさかった。



 エレベーターを上がり、カード式のルームキーで部屋に入ると、既に志保が帰っていた。

「おかえりなさい」

 ソファーで文庫本を読んでいた志保が顔をあげ、静かに新一を出迎える。その顔を見て新一は緊張感がほぐれるのを感じ、ただいま、とテーブルに荷物を置いて志保に近付く。

「事情聴取が終わるの早かったんだな。連絡くれれば迎えに行ったのに」
「子供じゃないのよ。一人で帰れるわ」

 三日前は真っ青な顔でほとんど会話もできなかった彼女が、今では小さな笑顔を見せることもできるようになり、新一はほっと胸を撫で下ろして志保の隣に座った。

「気をつけろよ。どこで見張られているか分からねーんだから」
「誰のせいだと思ってるの」

 実際、志保が注目されてしまった理由の一つに、新一の大胆な行動が原因でもある。

「悪かったって」
「命を狙われていた頃の事を思えば、全然平気」

 志保はぽつりとつぶやき、文庫本をテーブルに置いて、新一をまっすぐに見上げた。

「昔も今も、あなたが守ってくれたのよ」

 透き通った声に、新一は一瞬怯む。

「…何を言うんだよ。俺は」

 ――彼女から奪うことしかできていない。そう思う心をよそに、志保はそっと手の平で新一の頬に触れた。いつかとは違う、温もりのある指先にぞくりとした。

「あなたが本当の事を見つけてくれたから、私は今こうしていられるの。――ありがとう」

 何も話そうとしなかった彼女の奥底に触れた気がして、彼女の微笑みに新一は心臓を震わす。思わず志保に抱きついた。目頭が熱くなるのを止めるように志保の細い肩に顔を押し付ける。先日とは真逆の体勢で、ただ志保にしがみついた。

「工藤君?」

 志保が不思議そうに新一の頭を撫でるが、返事も出来ない。瞳から零れる生温かい液体が止まらない。
 声を押し殺しながら震える新一に、志保はふと笑った。

「あなたが泣くところ、初めて見たわ」
「……俺だって、人前で泣いたの初めてだ」

 この十年間、自己満足な真実を掲げて、いくつもの間違いを重ねて、戻れない場所に来てしまったと思っていた。でも彼女の声は簡単に新一をあるべき場所に戻してくれる。新一が何をしていても、認めてくれる。
 新一の歩いてきた道は無駄ではなかったと教えてくれる。
 肯定されることがこんなにも温かいものだということを知らなかった。昔から自立心を持って一人で生きてきたから。
 新一は鼻水をすすり、志保の肩から顔を離す。きっと自分は今とても格好悪い顔をしているはずだ。分かっていても吐息さえ届く距離で彼女を見つめる。目が合った志保の瞳は澄んでいて、彼女と生きていきたいと思う。

「好きだよ、志保」

 涙声でつぶやいて、志保の額に自分の額をくっつけて、目を閉じる。
 もう簡単に愛を信じられるほど純粋ではないし、永遠を願えるほど若くもない。それでも限りある時間の中で、無限に広がる空のように道は続いていくのだ。
 いくつもの分かれ道にぶつかっても、彼女と一緒なら怖くない。