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 ―――およそ1時間前。

「とぼけないで下さい、村上さん」

 宮野志保が所属する研究所の親会社である、誰もが知る大手の医薬品会社の不祥事。それを新一が口にすると、埃臭い事務所のソファーに座ったまま村上は眉をひそめ、ゆっくりと首を横に振った。

「本当に知らないんです。いや…、ヒトミがクスリの売買に関与していたのは知っている。あのクラブはそういう客が多かったし、謝礼や報酬も受け取っていた。だから俺も潜り込んで取引に利用させてもらったんだ。でも、その大元は知らないんだ、本当だ!」
「なら、なぜあなたはあの医薬品会社の情報を掴み、それを取引できたのですか?」
「だから、それはあの会社が何とかっていう病気を治すすごい薬を開発して、それが承認されるっていう情報を得たから…。あの怪しいクスリの売買と何の関係があるっていうんだ?」

 必死に頭の中で情報を整理するように饒舌に話す村上を見て、彼はシロだと新一は判断する。そうだ、素人の何も分からない人にこの流れで話せば、普通はそうなる。
 まさか世の期待される医薬品が、闇の中で売買されるなんて思わない。

「よく分かりました、村上さん」

 新一は黒いソファーから立ち上がり、座ったままの村上を見下ろす。

「あなたは薬の不正売買には関与していないと」

 新一の言葉に、村上はほっとしたような表情をした。

「しかし、誰もいないからといって簡単に口を割るものではないですよ。あなたの発言は全て記録させて頂いています」
「なに…」

 そしてすぐさま新一の追い打ちによって安堵の表情が凍りつき、立ち上がって新一に詰め寄った。

「記録だと? 消せ!」
「そう熱くならないで下さい、村上さん」

 胸倉を掴もうとする村上の手を制止ながら、新一は薄く笑う。

「僕は警察ではありません。確かに知名度のある探偵ですが、これだけの証拠で警察に駆け込むほど僕も墜ちてはいない。でも…」

 村上の手首をぐっと握りしめ、真正面から村上を睨む。

「おまえのやった事で傷つく者がいる。罪を着せられそうになっている奴だっているんだ。もし彼女に何かあれば、この記録を利用してやる。…早く逃亡したほうが賢明では?」

 新一の掴んでいた手が力を失くし、村上は再びソファーに倒れ込み、手の平で頭を抱えた。

「…なるほど、工藤新一、か」

 自嘲するように笑いをこぼしている村上の姿を尻目に、新一は事務所を出て新宿の街並みを駆け出す。
 汗ばむ額を手の平で拭い、かけた眼鏡に触れる。志保の居場所は分かっている。志保に渡したネックレスには二つの仕掛けをしている。発信機と、レコーダー兼盗聴器。建物に盗聴対策を施しているのか盗聴器は上手く反応しないが、あのネックレスにしかけたレコーダーには会話が全て記録されているはずだ。
 一度は疑われた宮野志保は、株の売買には無関係だ。そして彼女があのクラブで働いていた理由も、今なら分かる。彼女が何を思ってヒトミについて車に乗り込んだかも。

 ――あなたが仕事を選ばないのは、世間に認められたかったからだと思うわ。

 新一は適当に停めたタクシーに乗り込みながら、どっちがだよ、と唇を噛み締めた。



 あっという間にやってきたパトカーによって周囲はよどめき、野次馬と言う名の人々がざわざわと近付いてくる。パトカーから降りた刑事が市川に任意同行するよう説得している。もちろんこれらの展開は新一の連絡によるものだ。
 会社ビル内には監禁されている人物がいる、という新一の証言により、警官が数人ビルの中へと入って行った。もしかしたら志保を人質とされるかもしれない。大企業の持つビルとは言え、民間の建物の中で何が起こるか分からない。それ相応の準備で彼らが乗り込んでいったのを見届けて、新一は息を吐いた。
 市川が乗ったパトカーが走り去るのを確認してから、新一は今になって足が震えている事に気付いた。極度な緊張状態に身体と心が悲鳴をあげている。祈るようにビルを見上げた。
 いつかの週刊誌に書かれた事は本当だと思う。ずっと想っていた恋人を大切にすることも出来ず、永遠を叶えることもできなかった。探偵になりたいという夢を叶えた後はどう前に進めばいいのか分からず、気付いたらこんな場所に迷い込んでしまった。
 こんな方法で真実を暴いて、誰が幸せになれるというのだろうか。
 仕事だからと心を欺いてまで、彼女を危険にさらし、市川や村上を泳がせて掴んだ真実が、一体何になるというのだろう。
 新一は地面に視線を落したまま、視界に入った指先をじっと見つめる。彼女に触れた手は彼女の柔らかさを忘れない。最初から手に入れなければ傷つかないと分かっていて、それでも欲求に抗えなかった。それに後悔はない。少なくともその瞬間だけは彼女と何かを共有した錯覚に夢を見ることができた。
 新一はゆっくりとビルに背を向けた。野次馬達が更に増えている中で、突然宇宙に投げ出されたような感覚に陥った。彼女はきっと無事だ。自分の力ひとつでは助けることもできないけれど、彼女の無事さえ確認できればいい。ここで彼女に会ったところで何を話すというのだ。昔の自分とはこんなに変わってしまった姿で。
 もう帰ろうと震える足で野次馬達を押し退けて行こうとすると、

「工藤さん、監禁されていた方は無事だそうですよ」

 近くにいた刑事が無線を持ったまま、新一の肩を叩いた。思わず振り向いた時、ビルの入り口から警官に抱えられるように歩いて来た志保の姿が視界の端に映り、

「志保…!」

 合わせる顔がないなどと思っていた感情は一気に吹き飛び、志保の姿を見ただけで震えていたはずの足が地面を蹴って走り出す。