都会の騒音は高いビルの狭間で反射されて、耳に障る。
「とても傲慢だ」
市川は新一を鼻で笑った。
「いつかの週刊誌に書いてあった事は本当だったんだな。裏の仕事だって選ばず、高額な依頼が舞い込めば引き受ける。女を雑巾のように捨てたってのも案外本当なのかもしれない」
新一は鋭い刃物のような言葉も真摯に受け止め、こんな傷なんて大したことはないと思う。彼女が負った傷に比べたらこんなものは全然。顔をあげて、真正面から市川を見た。
「だからあなたの依頼も引き受けたんですよ。僕はあなたが何かに手を染めている事には気付いていました。――発売前の薬の不正売買、ですね」
歩道の信号が何回目かの赤を示し、再び車のエンジン音が盛大に沸き上がる。
「しかし僕は刑事でもなければ警察関係者でもない。あなたはそこを狙って、会社の損失を防ぐために株の不正取引の根源を僕に見つけてもらうように依頼をかけ、そして同時に休職中である宮野志保の居場所を特定しようとしたんだ」
――これは、宮野志保?
ホテルのラウンジで依頼の進捗を伝えた時、新一が黙って差し出した写真を見て、市川はつぶやいた。
――宮野は優秀な研究員で、私共の耳にも名前が届いています。
写真に映るアイという名のホステスの姿は、白衣を着る宮野志保からは考えられないくらい煌びやかで艶やかだった。そして暗い場所で隠し撮った写真は映りも悪く、いつもより化粧も濃い彼女を研究者である宮野志保だと一瞬で分かるには無理がある。
市川は知っていたのだ。宮野志保が薬の不正売買に勘付き、新宿歓楽街のどこかで真実を暴こうとしている事を。
「ところで、工藤さん」
車の流れが速い車道に視線をやりながら、市川は言う。
「あなたの仕事は私の仕事を暴く事ではない。私の依頼に応える事だ」
「さっきも言ったはずです。証言はとれています。犯人の動向も分かっている。でもその前に、」
そこまで言い切り、新一は息を吸ってビルを見上げ、そして再び市川を真正面から見据える。
「宮野志保を返してもらおうか」
まるで蝶のように掴みどころのない彼女を、こんなところまで追いつめてしまった。自己嫌悪で吐きそうになる。こんな自分が彼女を抱く資格なんてなかった。それでも、どうしても欲しかったのだ。
彼女の傍にいることで生まれた平穏と安らぎを、まるで赤ん坊の頃に戻ったように縋りたかった。
「一体何の話だ?」
市川は負けじと新一を見返すが、新一には全て分かっている。
「市川さん。あなたに容疑者三名の写真を見せた時に前置きしたはずです。確定ではないと。それを、なぜあなたはその内二名を監禁しているんですか」
「突然何を言い出すんですか。監禁だなんて人聞きの悪い」
「確かに、確定しない容疑者の顔写真をお見せするやり方は危険極まりない。だから、僕は彼らの動向を常に把握しています」
シラを切り続ける市川に、新一はポケットから眼鏡を取り出し、市川に見せつけた。眼鏡の右レンズには特殊な加工がされている。十年前から愛用している発信機を追跡するアイテムに加工を重ねたものだ。
最初から市川には警戒していた。依頼者と容疑者が、加害者と被害者として逆転することも多々ある世界だ。容疑者を守るために依頼者を誘導し、更なる悪事を知る。例えそれを世間に知らしめることができなくても、無関係な人間を巻き込むわけにはいかない。
眼鏡をかけた新一に対して、市川は途端に顔色を変えた。
「彼女達がこのビルにいることは分かっています。ああ、それから会話の内容も全て、録音されています。盗聴対策が徹底されているのか会話の内容は聞こえていませんが、恐らくあなたは宮野志保と例の医薬品の不正売買と副作用について口論し、株主総会前に情報が漏れるのを恐れて彼女を閉じ込めた。…そんなところでしょうか」
ふと市川のズボンのポケットから携帯音が軽やかに鳴った。市川は視線を彷徨わせて、ただ突っ立っている。
「市川さん。電話が鳴っていますよ」
「……」
新一はふっと口角をあげ、市川に近付き、自分の持つ携帯電話の表示を彼に見せつけた。
「宮野志保の携帯ですね。今僕がかけているところです」
新一の持つ携帯電話の表示には、志保の名前が表示されている。
彼女から情報を遮断させる為には連絡ツール全てを取り上げないといけない。志保がいなくなった部屋には携帯電話が見当たらなかった。彼女が持って出ていったことは明らかだった。今市川のポケットの中で鳴っている携帯は彼女のもので間違いない。市川がどうやって志保から携帯電話を奪ったのか、想像しただけで足元から黒い感情が沸き上がる。新一はぐっとこらえ、青ざめた市川から視線を外さない。
遠くからパトカーの音が聞こえる。
「ゲームオーバーだ」
市川の腕を掴んだまま、新一はつぶやいた。