5-2

 壁の向こう側から聞こえてくるシャワーの音を聴きながら、新一は志保の部屋を見渡した。――昨夜の事だ。
 初めて入った志保の部屋はとても簡潔な空間で、物が少なかった。しかしパソコンの置かれたデスクの本棚には医薬品関係の書籍が並んでいて、改めて彼女は研究者なのだと実感した。
 どんなに彼女に近付いても、彼女に触れても、彼女を理解することは難しかった。そして志保は頑なに話そうとはしなかった。新一はここで引き下がるわけにはいかない。探偵である以上、どんな情報でも知る必要があった。
 続くシャワーの水音に紛れるようにデスクの周りを触れる。志保が何の薬を開発していたか目星はついている。それは今の段階では完治の難しいと言われる疾患の薬で、市川の言う通りとても優秀な医薬品として世の中に君臨するだろう。
 本に挟まれた志保のメモから、志保が開発した薬の構造式が浮かび上がる。それはある麻薬の構造式と形がよく似ていた。もしや、と思い、新一はベッドの近くに置いてあった鞄からノートパソコンを取り出し、その薬を検索する。

「呆れた」

 いつの間にシャワーを浴び終わっていたのか、湿った髪の毛をタオルで拭きながら志保が部屋に入って来た。

「こんな時間にこんな所ところで仕事しているの?」

 新一は何気ない振りを装って志保を見上げ、さりげなくパソコンを片付ける。

「悪い、気になる案件があったんだ」
「あなた、本当に仕事病に侵されているのね」

 聞き覚えのある単語に苦笑しながら、それがとても遠い昔のように感じ、不思議にも思った。言葉というものは凶器にもなりうるはずなのに、彼女の紡ぐ言葉には優しさが垣間見える。
 自分を評する世間の言葉の数々に傷つき、疲弊していた時間が少しずつ癒えていく。不完全で完璧になれない自分を、志保だけが知っている。それは奇跡に近いことだった。
 彼女を拘束するように自分の腕の中に閉じ込め、濡れた髪の毛を乾かして行く。先ほど自分が使ったシャンプーと同じ香りが漂う。
 真実はいつだって残酷な理由を潜めている。それでも逃げる事は許されない。鞄から準備したネックレスを取り出し、志保の細い首元に飾る。控えめな飾りのそれは、色白の彼女にとてもよく似合っていた。

「おまえの事は俺が守るよ」

 ベッドに転がって不貞腐れた志保を再び後ろから抱きしめ、そっと呟くと、彼女は寝返りを打って新一を見た。怪訝に眉を寄せたその表情を見て、なぜか安堵を覚える。
 いつだって自分の信念を胸に歩く彼女を誇らしく思い、唇を寄せた。



 ビルの前に立って空を見上げる。高いビルとビルの間に見える空は遠く狭く、眼鏡越しで見える青いそれは人々の潜在的に持つ力全てを吸収して行くように見えた。目の前の信号は定期的に色を変え、その度に波が押し寄せるように人々が行き交う。向かう方向も思考もそれぞれ別物だというのに、人々の顔は険しく、この暑さにうだっていた。
 見張っていたビルからスーツ姿の男が二人出てくるのが見え、かけていた眼鏡をポケットに入れながら新一は足を踏み出した。

「お疲れ様です」

 男に声をかけると、男は驚いたように目を見開いた後、いつものように礼儀正しく頭をさげた。

「工藤さん。何かあったんですか?」

 しかしその丁寧な口調の端には少しばかり焦りがにじんでいた。もう一人の背の低い男は何事かと新一の顔をじっと見つめている。新一がかの有名な探偵であることにまだ気付いていないのかもしれない。
 新一がビルの中を伺うように視線をあげると、男はじりじりと新一に近付く。

「…工藤さん。アポもなしというのは、ルール違反ですよ。私は急いでいるんで、話がないならこれで」
「市川さん」

 男の言葉を止め、行路すら遮るように新一はただ立ったまま視線を男に戻した。

「例の株の売買についてです。証言もとれています」
「………」

 市川は隣の男に先に行くよう目で促し、大きくため息をついた。

「依頼者の都合などお構いなしですか。さすが工藤新一だ。手段は問わないという噂は本当だったんだな」
「それはこちらのセリフですよ、市川さん」

 新一はポケットに入れたままの眼鏡を指で探る。はらわたが煮えくり返りそうな感情を口元から押し堪えて、静かに市川を見据えた。

「あなたの本当の目的は今日の株主総会で例の医薬品の発売を正式に発表する事。そのためにはどうしても研究者の居場所を掴まなければならなかった」

 空に届きそうな高層ビルを見上げる。彼女を思う。
 すぐ近くにいるのに届かないのは、今に始まった事ではない。遠い昔からずっとだ。ずっと隣にいたのに、彼女を抱きしめることもできなかった。
 こんな時にこんな風に冷静なふりをして、それでも真実を暴こうとする自分は、やっぱり冷淡で冷血だと世の中に嘲笑され、失望されるのだろうか。

「あなたが手段を問わないのであれば、僕もそれなりに手を打たせてもらいます」

 街の喧騒の中で新一が声をあげると、市川は口元を歪めるように笑った。