光の中から新一が現れ、志保はその眩しさで目を細めた。
助けに来たぜ、と柔らかく微笑む新一を見て、これは夢だと志保は思う。だって昨日触れた彼はこんな屈託のない顔で笑わない。よく見たら彼は帝丹高校の制服を着ている。
手を伸ばしかけ、こんな手で触れたら穢れてしまうかもしれない、と志保は躊躇し、手を引っ込めた。まるで江戸川コナンのように新一は目を丸くしたまま首をかしげて、「どうしたんだよ?」と志保に聞く。
彼を好きだからこそ触れる事にとまどってしまう。そんな事言えない。言えるはずもない。
この気持ちは一生吐露する事のないように心の奥底に閉じ込めておいたはずなのに。
隣で金髪の女がふわりと気配を露わにする。
「工藤さん」
少し鼻にかかった高い声で、ヒトミが新一に近付いた。
「工藤さん、助けて」
志保が言いたくても言えない感情を、彼女は簡単に言葉にして、制服姿の新一の腕に縋り付く。これは嫉妬なんて生易しいものではない。胃の底からせり上がるような感情に、志保は唇を噛んだ。
――触らないで。
なんて醜い独占欲。彼は自分のものじゃない。そう唱え続けてきたじゃないか。そうやって自分を納得させてきたじゃないか。彼にはもっと相応しい女がいる。そんなこと理解している。
それでも愛されたいと願ってしまうなんて、なんて愚かな生き物だろう。
ふと意識を取り戻す。連日続いた寝不足による疲労が今になって身体を襲い、意識を失っていたようだった。壁に寄りかかったまま志保は視線をあげる。ブラインドの隙間から外の景色を覗いていたヒトミが視線に気付いたのか、志保に振り向き、目が合った。
「大丈夫? なんかうなされているようだったけれど」
「…私、何か言ってた?」
「さぁ」
ヒトミは肩をすくめ、ブラインドから手を離した。ブラインドから差し込む光は先ほどより強くなっている。時計も携帯電話もないこの部屋では、今が何時なのか分からず、世界に取り残されたような気持ちになった。
「今日は株主総会があるんだ。昼からは市川はそれに出かける。あの医薬品の発売も正式に発表されるはずだわ」
ぽつりとつぶやいたヒトミの言葉に、ぼんやり霧がかかったような脳が一気に覚醒した。
「そんな…。あの副作用についての記載もないまま、何かあったらどうするの…」
医師など医療関係者は神ではない。人間だ。何かの間違いで薬が該当する患者以外に投与されてしまうことだってありうる。その時に発現される副作用のリスクはとても大きい。それを医療関係者が知らないままでは、大きな医療事故につながりかねない。現に今は薬も出回っていて遊び半分で試されているというのに。
志保は膝に頭をくっつけるようにして目を閉じた。だから自分はここに閉じ込められたというのだろうか。余計な情報が露見しないように。
「何かあったら、全て研究者であるあなたの責任にするんじゃない?」
「…どういうこと?」
「アイちゃん、あなたはどうしてあのクラブで働く事にしたの?」
突然話題をすり替えたヒトミが志保の前まで歩いてきた気配を感じ、志保は顔をあげる。
「それは、あのクスリが出回っている事を知って、それを調べたかったのよ…」
「アイちゃん。あたしが許せない事は、あなたがあたしの職場に土足で踏み込んだ事だよ」
ヒトミは鋭い視線で志保を見下ろした。
「誰にでもできる仕事だと思った? あなたのそういう態度、ずっと鼻についてたの。広き門の仕事だけど、あたし達プロにとっては誇りなの」
「…ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのよ」
ヒトミの言葉に、思わず志保は視線を落としてつぶやいた。
確かにヒトミの言い分は正しい。志保は好きで新宿歓楽街に足を踏み入れたわけじゃない。自分が喋り下手なことくらい自覚あるのだ。だけどヒトミのようなプロのホステスの気持ちなど考えた事もなかった。
でもいつか新一に話したように、この仕事の奥深さを知り、給料をもらっている以上志保なりに真剣に仕事をしたのだ。それに、志保にだって言い分はある。特に事情を知っているヒトミには。
試作品の在庫量の変化に気付いた志保はすぐに会社に休職届を提出し、クスリの動向を確かめる為にホステスとしてクラブの内部を探り、客と接しているうちにあるクスリの話題がのぼった。心臓が震えたのは、背筋が凍ったからか、怒りで頭に血がのぼったからか。
自分の作ったものを、あんな形で放っておけなかった。
志保の言葉に、ヒトミは志保の隣に静かに腰を下ろす。
「今日あなたをここに連れてきたのは、あたしの勝手だったよね。開発者であるあなたを市川に会わせたかったの。あなたが本当に宮野志保なのか疑わしかったし、そうすることであたしの立場はまた守られるって、すごく都合のいいことばかり思ってた。でも、あなたを閉じ込めたかったわけじゃない。…あたしもあなたの誇りやプライドをぶち壊したんだね」
志保を見下ろしていた時と打って変わって殊勝な態度で語るヒトミの言葉の中で、志保は引っかかりを覚える。
「…待って。どうして私が宮野志保だと分かったの?」
志保の問いに、ヒトミは答える。
「市川がうちのクラブの中を調査して、それで知ったみたいだよ」
「…調査って」
工藤新一の顔が浮かんだ。
彼が何を捜査していたのか志保は知らない。相棒にすらなれなかった。首元にかけられたネックレス。新一はこの医薬品会社のグループの上層部に志保の情報を渡したのだろうか。
「市川はあなたが株の不正取引に噛んでいるって思い込んでいるんだ。そのついでに薬の売買も、全てあなたに罪を擦り付けようとしている」
全ての責任が自分に振りかかる。
薬のことだけならまだ耐えられる。でも、覚えのないことまで、どうして自分が。
志保は頭を抱えた。新一の顔が浮かぶ。週刊誌などで悪い噂のある彼だけど、本当は女好きでも女で遊べるような性格でもないことは、志保が一番知っている。そんな新一がクラブに足繁く通った理由。いつもアイという名の自分を指名し、監視するように傍にいた理由。
おまえの事が好きなんだ、と強引なキスの後にまるで傷ついた子供のような目で訴えた新一はどんな真実を手に入れていたのだろうか。
愚かな夢を見ていたと思う。もしかしたら新一も薬の情報を得て動いてくれるのかもしれないとどこかで期待していたのだ。彼はただの人間で、スーパーマンではない。世間の新一への期待が新一自身を苦しめたと、志保が一番分かっていたのに。
彼の幸せを願いながら、彼の傍にいたかった。こんな形でもまた他愛のない会話が出来る時間が嬉しかった。
――おまえがこの十年間どう過ごしてきて今に至るのか知らねーけど、一生懸命だった事は俺にでも分かるよ。
昔と変わらない優しい目を向けてくれた新一を無条件に信じてしまった。人に依存したら破滅する、と言っておきながら、昔と変わらず新一に依存している事を自覚し、嫌悪感でいっぱいになり志保は涙ぐんだ。
「ちょっと、アイちゃん…」
膝を抱えてうつむく志保の肩をヒトミが叩いたのと同時にドアの向こう側で足音が重なり、ドアと鍵が音を立てた。ヒトミの手がびくりと志保の肩にしがみつき、志保は涙を流しながら顔をあげる。
「警察だ!」
大きな声と同時にドアが乱暴に開き、拳銃を向けられた。