ビルの最上階で窓も開いていないのに、街のざわめきが光とともに伝って来る。少しずつ五感が働き始めるのを志保は感じていた。
市川に手首を掴まれた瞬間、時間が遮断された。あまりの恐怖に言葉を失い、タイムスリップをしたように一瞬にして生々しい記憶が蘇った。戻った先は宮野志保でも灰原哀でもなく、シェリーと呼ばれていた自分だ。
「大丈夫?」
顔を上げると、ヒトミが志保の顔を覗きこんだ。
「私をここに連れてきておいて、よくそんな事が言えるわね」
「…こんなつもりじゃなかったのよ」
先ほどは人形のようだった彼女が、今は普通の人間のように眉を寄せて志保を見つめている。とても不思議な気持ちで志保は揺れる長い金髪を眺めていた。
ヒトミはため息をついて、壁に背中を預けるようにして志保の隣に座った。車のクラッシュ音、信号の音、空に舞い上がるように景色の一部となる。
疾患を治すはずの薬は、その神経伝達物質の相対量を増やす事によって人の精神状態を崩す副作用を持っていた。それは研究をしている時から理論上でも分かっていた事だった。それをいかに防ぐか、化学式を計算し、人の体内に入った場合の血中濃度と半減期を示し合わせ、その副作用は対象患者に対して発現を最小限の抑える事に成功していた。
しかし、その努力を嘲笑うかのように、その薬は健常人の手に渡り、麻薬のような幻覚作用を起こす薬としてあっという間に闇ルートに広まっていた。
気付いたのは偶然だった。試作品の在庫量がいつも合わなかった。調べるうちに、新宿でその薬がふざけた名前で出回っている事を知り、その根源であるクラブに志保は名前を偽って潜入したのだ。
シェリーと呼ばれなくなって十年経っても、自分の作ったものは人の為にはならない。その事を思い知らされた。こんな生き方をしていて、夢を見ていた。
「アイちゃん」
ヒトミの呼ぶその名詞は、一人の少女を思い出す。ヒトミとは全く正反対の雰囲気の、純粋な笑顔を志保に与えたその少女は今は高校生だ。彼女は今でも覚えているだろうか。灰原哀として過ごした自分の事を。
「あなたにはご両親はいるの?」
唐突な質問に、志保は眉をしかめる。両親の顔が少しずつ記憶の中で小さくなっていっている事に気付く。
「…いないわ。とうの昔に死んだの」
まるで記号のようにつぶやく志保に、ヒトミは眉根を寄せる。
「そう…。あたしはね、家出少女だったんだ」
壁に寄りかかりながら、歌うようにヒトミが語るのを志保は静かに聞いていた。
「ただの反抗期。両親とも健在だったのに、それをうっとおしくさえ思ったわ。人の不幸を羨ましくなるような、馬鹿げた子供だったの。お小遣いも少なくて、勉強も嫌いで、荷物も持たないまま家を飛び出して、今のクラブの社長に拾われて。…若い頃はキャバクラで働いて、ママになった事もあったわ。そこでここの会社の社長の愛人になって。欲しいものは全て手にいれたつもり」
一応今でもこの医薬品会社に籍を置く志保にとっては、あまり笑える内容ではなかったが、彼女の人生を想像した。そして共感できなかった。自分の生きてきた道とは全く別のものだった。
「お金も家も、何一つ不自由のない生活も、ステータスの高い男も、何でも手に入ったのよ。なのに…」
ヒトミは両手で抱えた膝に顔をうずめた。長い金髪が背中に張り付くように揺れる。
「――アイちゃん、あたしはあなたが羨ましい」
これまでの彼女の態度からは見た事のないような細い声に、これは演技じゃないかと志保は眉を潜めた。
「その話と、あの薬を裏ルートで売ったのと、何が関係あるの?」
声に出して、思った以上に冷たい声で志保自身おののく。ヒトミはゆっくりと顔をあげて、志保に向いた。
「黙っていた事は謝る。村上が株の裏取引をしている事も、あの薬が出回っている事も、全部知ってた。でもあたしには止める義理もないって思ってた。失うものが大きすぎるから」
「その手離したくないと思うものは、そこまでして縋るものなの?」
志保の言葉にヒトミは右手で髪の毛をかきあげながら、小さく笑う。
「本当は違うと思う。でもあたしはバカだし…、あなたみたいに賢くないの。こうやって生きて行くしか術がないんだよ」
やっぱり彼女の事を理解することは無理だった。それでも、彼女には自分にはない空虚さが滲んでいる事だけは分かって、志保はため息をつく。
「私も人に縋って生きていた事があったわ。それこそ、その人を生きがいにした事もあった。でもそれは結局自分の首を絞めただけだったの。人への依存は、人を破滅させるわ」
十年前、姉を助ける為だけに生きた。その結果、あの悪魔のような薬を生み出し、多くの犠牲者を出した。約束は裏切られ、姉は殺され、生きる意味を失った。
そんな時にその犠牲者の一人である江戸川コナンに出会い、彼を元に戻す為に解毒剤の研究に没頭した。彼岸のそれを完成させ、工藤新一に戻った事を見届けた後、志保には何も残っていなかった。
空虚感。これまでいかに自分が工藤新一の為に生きていたかを思い知り、それを恥じた。いい大人がどうやって生きて行けばいいのか分からない。呼吸する方法すら忘れてしまったかのように、眠れない日々が続いた。恩人である阿笠博士の反対を押し切って、逃げるように阿笠邸を出て一人で暮らす事にした。ずっと組織の中にいたせいで世間知らずな志保が出来る事。研究職に就いて生計を立てた。自立した自分を見つめることで、立ち上がることができた。それが見せかけであっても。
「アイちゃんは強いんだね」
ヒトミの微笑んだ表情を見て、志保は息を飲む。
――志保はすごいね。
志保を褒める姉の笑顔が脳裏に映り、志保は手首を撫でながら目を伏せた。
最初から強いわけではなかった。偽りの姿をしていた頃、何度も彼に弱音を吐いた。そんな自分に彼はいつも優しく言った。運命から逃げるな、と。
――私は恋を知って強くなった。