「あの素晴らしい医薬品を早く世に出したいと君は思わないのかい?」
ソファーに座ったままのもう一人の男が口を挟み、志保はそちらに顔を向ける。
「それは、あの副作用についてきちんと明記してからだわ。私が求めるのはそれだけよ、どうしてそれをもみ消そうとするの」
「宮野志保さん」
もう一人の男は眼鏡をかけていて、こんな朝だというのにきっちりとスーツを着てネクタイも閉まっている。ひょうきんな男とは違い、表情が読めず、志保は唇を閉ざしてその声の続きを待った。
「マウスの実験ではパーセンテージに置き換えられるほどのものではなかったはずだ。それにもう論文も発表し終えた段階でそんなものを載せて、厚労省が納得するとでも?」
「確かに、臨床試験でも対象の難病患者には効果があったわ。副作用発現も限りなくゼロに近かった。でも!」
志保はヒトミに顔を向けた。ヒトミはあっけらかんと指先で金髪を弄びながら、壁に寄りかかって立っている。この場に相応しくない姿でいながらその堂々とした態度に、怒りすらこみ上げる。
「健常人が使った結果を明記するべきよ。挙句の果てに、まだ試作品の段階で裏ルートで出回っているの。脱法ドラッグのような扱いで素人が使っているのを、知らないなんて言わせない!」
半ば叫ぶような志保の声に、ヒトミはゆっくりと瞼を動かし、志保をじっと見つめた。その表情すら作りもののようだった。
宮野志保としての人生を取り戻して、阿笠博士のコネクションを使ってこの医薬品会社の研究員として就職した。そこでさまざまなチームで、さまざま研究を続けた。
志保が作りたいのは人に害を与えるものではない。人を救うものだ。だけど副作用のない薬など存在しない。薬を逆から読めばリスク、とはよく言ったものだ。
二年前、志保は偶然にもある情報伝達物質の働きを掴み取り、それがある完治が難しいと言われる疾患に関与することをつきとめた。それを利用すればその疾患の治療に生かせるかもしれない。悪夢の中で自分を嘲笑う銀髪の男を振り切るように、志保は研究に没頭した。
その薬は治療薬として世に出るはずだった。だけど、悪夢は終わらなかった。
「仕方ない…」
ソファーに座っていた男が立ち上がり、志保に近付いた。眼鏡をかけたスーツ姿の男の威圧感に、志保は一瞬怯む。その隙をついて、男は志保の手首掴み、志保の身体ごと壁に押し付けた。ドン、と後頭部に衝撃が走る。
「何するの…!」
「大人しくしろ」
男の手の平が志保の腰を撫で、志保は身震いした。全身鳥肌が立ち、声が出ない。
ふと手首に入っていた力が抜け、顔を上げると志保の携帯電話を見せつけられた。
「これを預かっておくよ」
先ほど男は、志保が履く短パンのポケットに入っていた携帯電話を探したのだ。志保は悔しさで唇を噛む。携帯電話なんてどうでもいい。交友関係が皆無である志保にとって必要なものでもない。
だけど、工藤新一のデータが入ったままだ。手首を掴まれた時の衝撃と嫌悪感とやるせなさで、志保はそのまま壁を伝いながらずるずると崩れるようにカーペットの床に座り込んだ。
「ちょっと、なんであたしまで!?」
先ほどまでほくそ笑んでいたヒトミの声があがる。視線を向けると、ヒトミも携帯電話を奪われたようだった。
「君たちは実に疑わしい」
二台の携帯電話を片手で持った男は、ひょうきんな男にそれ渡し、眼鏡を人差指で直す。
「副作用なんてどうでもいい。密売するのも結構。それだけあの薬には威力がある。会社に利益を与えるものは黙認することも必要だ」
窓際のブラインドの隙間からの光は次第に強くなり、その男の顔を照らす。志保は壁に寄りかかりながらぼんやりとその男の顔を見上げた。
「しかし、株の取引に利用するのは頂けない」
――何の話。
そうつぶやこうとするが、声にならない。志保には全く身に覚えのない話だ。
「市川、何を言ってるの? 取引しているのは株を恋人だと公言している村上よ?」
「ああ、でも君と村上の関係も噂で聞いたのでね」
市川と呼ばれた男はヒトミをなだめるように笑う。
「君は我が社の情報に敏すぎる。しばらく宮野志保の見張りとして、ここにいるんだ」
先にドアの向こうに出て行ったひょうきんな男を追うように、市川も出て行く。ヒトミが市川に縋るように暴れるが全く効果はないようだった。バタン、と世界が終わるような音を立てて、ドアが閉まった。
「なんで…。どうしてここのドアの鍵は外鍵なのよ…!?」
ノブをまわし、ドアを叩くようにしてヒトミが悲鳴をあげる。乱れた金髪を振り切るようにして志保に顔を向けたヒトミは、きっと志保を睨んだ。
「あんたのせいよ」
「…私には関係ないわ」
力なく志保がつぶやくと、ヒトミは諦めたのかドアから離れ、志保の前に座り込んだ。名の知れた医薬品会社の自社ビル最上階の、広い応接間に二人の女。外鍵のドア。滑稽な光景だと思う。
「…ごめん。ただの八つ当たりだったわ」
うなだれるようにヒトミは床に視線を落として、ぽつりとつぶやいた。