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 志保の髪の毛を乾かし終えた新一は、取り出していたノートパソコンを鞄の中に片付けた。志保はその動作を見ながら、もしかしたら自分がシャワーを浴びている間にこの部屋の何かを調べられたかもしれない、と思った。

「志保」

 志保が皺の寄ったシーツを整えていると、鞄から何かを取り出した新一が志保の名前を呼び、志保の腕を掴んで抱き寄せた。先にシャワーを浴びた新一の襟元はしっとりと汗が滲んでいる。

「なんなの?」
「プレゼント」

 首元に微かなくすぐったさを覚えて、手で触れると、いつの間にか細い鎖がかけられていた。ネックレスだろうか。抱き寄せた一瞬の間につけられた事に気付き、新一の器用さに志保は嘆息した。相変わらず気障な男だと思う。

「私、誕生日でも何でもないけれど」
「そう言うなよ。おまえ、クラブでもアクセサリーを付けてなかったからさ」
「…客からのプレゼントだと思っていいわけ?」

 ――私の事を本当の名前で呼ぶ癖に。思わず喉から低い声が出て、志保は顔をしかめて新一に背を向けてベッドの中に潜り込む。

「おまえは客と寝たりしねーだろ」

 再び怒ったような新一の声と共に、ベッドの中に温もりが宿る。壁際に顔を向けている志保を後ろから抱きしめた新一の髪の毛の香りが同じシャンプーのものだと分かり、心臓が握り潰されそうに痛んだ。
 志保は再び首元に触れる。そんなに長くない華奢なネックレスは、鏡を通すか一度外すかしないとデザインを確認できない。それでも付けたまま、志保はありがとう、と背を向けたままつぶやいた。
 新一は満足そうに笑い、志保のうなじに顔を寄せる。くすぐったさに志保は身をよじった。勢いでこの部屋に来た彼は、このまま泊まるつもりだろうか。それを咎めることもしない志保も同罪だ。

「おまえの事は俺が守るよ」

 かすれたその声に志保が振り向くと、新一は物言いたそうに微笑んで、志保に顔を寄せた。もう何度目になるか分からないキスにまた翻弄される。おまえの本当の事を知りたい、という彼に、真実を教えるわけにはいかないと志保は思う。

「なぁ、もう一回しよーぜ?」

 真実を知った彼が、自分を省みずに無茶をすることは目に見えているから。

「またするの?」

 呆れながらも今だけは現実から逃避するように、志保は新一のまだ湿った髪の毛に触れて、今度は自分から口付けた。




 ヒトミに促されて乗ったエレベーターは最上階に着き、軽やかな音を立ててドアを開けた。
 もともと研究職である志保が本社であるこのビルに来る事はそう多くない。そして最上階などに足を踏み入れたことなどあるはずもなく、ますますヒトミに対しての疑念が沸く。
 スパイ、愛人、元秘書…。まるでサスペンスドラマに出てくるような言葉が頭を巡り、志保は口元を歪めた。
 ドアが開くと、暗めの照明が落とされた廊下は壁紙も志保が出入りする階のものとは違い、どこかエキゾチックな雰囲気が漂っていた。鼻をかすめるお香の匂いは、夜のクラブを思い出す。自分を偽って潜入した場所。
 志保の前を慣れた足取りで歩くヒトミが一番奥のドアを開けた。

「おはよう、ヒトミちゃん」

 中にはスーツ姿の男が二人、応接間のようなソファーにかけていた。仕事の話でもしていたのだろうか、二人の間にあるテーブルにはいくつかの書類が置いてある。――だけど、こんな朝から?

「驚いたな、君が宮野志保さんを連れてくるなんて」

 にこやかな男が欧米人のように大げさに両手を広げて肩をすくめる。廊下の雰囲気とは違い、部屋の中は普通の景色だ。外から差し込む光はブラインドを介して、柔らかく部屋のカーペット地の床を照らしている。

「…私を知っているんですか」

 志保は改めて自分の格好に気付き、肩身が狭くなる。綿でできた長袖のパーカーに短パンに、ヒトミから電話をもらったので慌てて履いたスニーカー。そして整っていない癖のある髪の毛に、ノーメイク。ドレスコード違反にも程がある。

「当然じゃないか。君は我が社の期待する医薬品を作ってくれた、とても優秀な社員だ」

 男は立ち上がり、呆然と立ち止まっている志保の前に立つ。あまり志保と身長の変わらない男から志保は視線を外す。優秀、と頭の中でつぶやく。
 人の心に踊らされる薬の、何が優秀なものか。――私は今も昔も変わらない。

「まだ医薬品じゃないわ。ただの試作品の段階、ただのクスリよ」
「そう言うなよ。もうすぐ承認がおりるはずだ。我が社の医薬品が、世界を救うんだよ」
「……人の脳神経に関わる副作用を、見て見ぬふりをして?」

 何かを噛みつぶしたような志保の声に、ひょうきんに笑っていた男の顔がこわばった。この男を知っている、と志保は思った。社報誌か何かの写真で見た。この会社の重役か、取締役員か。
 何にしても、志保が必死に止めようとしていた事を、この会社の上層部が嘲笑っている。昔とは変わらない状況に志保は落胆した。

 ――だって毒薬だなんて思わなかったもの。

 つぶやいた志保に、眼鏡をかけた幼い顔をした彼が何て答えたのか、上手く思い出せない。
 十年以上も前、志保が作っていた薬は人に死を与えるものだった。人の希望でありながら、人を死に追いやる幻の薬。そうとは知らず、姉を自由にしたくて、普通の女の子の生活を夢見て、必死に研究している志保を、銀色の長髪の男が虫を見るような目で笑った。