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 黒いワンボックス内は煙草の匂いに充満していて、後部座席に座る志保はむせそうになりながら外の風景を眺める。普段見る事のない早朝の景色は車も人も少なくて、まるで別世界のようだ。助手席に座るヒトミは煙草をふかしながら運転手の男と二、三言会話しただけで、ずっと黙り込んでいた。
 ヒトミの長い金髪を眺めながら、志保は思考を巡らせる。彼女と某医薬品の関係を考える。
 あのクラブに潜入して一カ月と少しが経っていた。



 車が停まったのはよく知っている場所だった。

「降りるわよ」

 ヒトミはドアを開けながら、志保に声をかける。志保はうなずき、同じように車のドアを開けて外に出た。少しずつ高くなる太陽が地上に熱を伝え始めているのを感じながら、志保は目の前に立つビルを見上げた。

「アイちゃん、早く」

 呆然と突っ立った志保に、ヒトミが再度声をかける。ヒトミは慣れた足取りでビルの中に入ろうとする。志保は何度か瞬きをした後、ヒトミを見つめた。

「あなた、何者なの?」

 午前七時前。呼吸し始めるように少しずつ街が機能して行くのを感じるが、そのビルの前にはまだ人気はない。志保の声にヒトミは金髪を掻きあげて笑う。

「何者でもないわ」

 クラブでは見せない声色に怪訝に思いながら、志保はヒトミの後を歩く。本来社員しか入れないゲートも、ヒトミは社員証らしきものを機械にかざし、自動ドアが開く。普段密閉されたビルの匂いが鼻をつき、大理石の床を歩く靴の音が耳に響く。ここは志保が所属する医薬品会社だ。
 エレベーターホールでヒトミがボタンを押す。それを眺めながら、志保は綿素材の部屋着である短パンをぎゅっと握った。

「…あなただったの?」

 思いの外震えている声に、志保自身が生唾を飲み込む。ヒトミは唇を閉ざしたまま顔だけ志保に向けた。エレベーターが少しずつ近付いている。

「私が開発したあの薬を、闇で売りさばいたのね?」

 志保が言うと、ヒトミは鼻で笑った。同時にエレベーターが着き、音を鳴らしてドアが開く。

「乗るわよ」
「何をする気?」
「なんだと思う?」

 先にエレベーターに乗ったヒトミが、ボタンを押し続けてドアを開けたまま志保を見る。

「アイちゃん。あなたはその犯人を知りたくて、あのクラブを見つけてホステスになったのよ。あなたのその度胸があるなら、あたしと一緒に来られるでしょう?」

 挑発だと分かっている。それでも近付く真実に志保は逆らえなかった。まるで工藤新一のようだ、と志保は自分自身に笑った。




 昨日の夜、もう一度抱き合った後はさすがにかいた汗が気持ち悪くなり、シャワーを浴びて部屋に戻ると、部屋に電気がつけられていて、先にシャワーを浴び終えてシャツを羽織った新一がベッドの上で自分のノートパソコンを広げていた。

「呆れた。こんな時間にこんなところで仕事しているの?」

 タオルで髪の毛を拭きながら嘆息する志保に、新一は上目遣いで片手を顔の前にかざす。

「悪い、気になる案件があったんだ」
「あなた、本当に仕事病に侵されているのね」

 いつかの趣味の悪い記事にあった言葉をそのまま言っても、新一はただ笑うだけだ。傷ついているのかもしれない。でもクラブで初めにあった頃に比べてどこか毒の抜けた顔をしていた。

 クラブで再会した夜。
 変装用なのか、眼鏡をかけた工藤新一を見て、胸が高鳴った。なぜこんなところに、と思う前に、江戸川コナンに再会した気持ちになったのだ。そして隣にいる怪盗キッドの正体である男に気付き、合点がいった。
 工藤新一がいつからか裏の世界に手を染めている事は志保も噂で聞いていた。彼と決別をして十年、自分にも様々な事があったように彼にも思うところがあったのだろう。それでも志保は彼の中にある正義感を信じていた。最後には彼は道を踏み外さないと知っていた。だからこそ、彼は疲弊してしまったのだ。黒羽快斗のようにポーカーフェイスを保てるわけでもなく、裏と表、現実と理想の狭間で、新一は揺れていた。
 封印していた感情が暴れ出す。
 振りかかる現実にもがく新一の姿は、黒の組織を追うコナンに似ていた。

「志保、タオル貸せよ」

 つい十日前の事を頭の中で反芻していると、いつの間にか新一はノートパソコンを閉じて、ベッドから降りて志保の前に立っていた。志保の返事も待たずに志保の持っていたタオルを奪い取り、志保の頭をがしがしと拭いた。

「…ちょっと、もう少し優しく拭いてくれない?」
「文句言う前に、ある程度拭いてから出てこいよ。風邪ひくだろ? ドライヤーはどこだよ?」

 そしてやはり志保が答える前に新一はドライヤーを洗面所から持ってきて、そして勝手に志保の髪の毛を乾かし出す。新一の言われるがままにベッドに腰をかけて、そして志保の背もたれになるように新一が後ろに座り込む。頭に触れる新一の大きな手が気持ちよくて、そして先ほどまでの情事の疲れもあり、眠気に襲われた。
 この安心感はまるで恋人のようで、泣きたくもなった。

 ――志保。

 いつの間にか志保を源氏名ではなく本当の名前で呼ぶ新一を、志保はもう咎めない。新一が志保の何かを調べようとしている事が分かっていても。

 ――おまえの事が好きなんだ。

 つい数時間前に言われた言葉が本物かどうか分からなくても。