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4.アゲハ蝶



 志保の住んでいるマンションの近くにはバス停がある。始発のバスが出発する音を、志保は新一の寝顔を見つめながら聞いていた。一睡もしていないというのに、妙に頭が軽やかだ。
 もうすぐ七月になるこの季節でも、朝方は外からの風が気持ちいい。風によってカーテンが揺れるたびに光が狭いワンルームを照らすが、新一は目を覚ます様子もない。それをいい事に、志保は彼に触れる。髪の毛に、頬に、首筋に、シーツの上から腕のたくましさを確かめる。時折くすぐったそうに眉をしかめながらも目を覚まさない新一に志保は微笑み、ゆっくりと起き上がって服を着た。床には衣服や下着が散らかっていて、志保は昨夜の情事を思い返して頬を染めた。彼の指が、舌が触れた箇所が再び熱を持つようだった。
 志保は、新一が何を捜査しているのかを知らない。初めの頃こそ捜査に強引に巻き込まれるのかと思ったが、どうやら違ったらしい。そしてその事実に志保は落胆していた。彼が自分を相棒と呼んだのは昔の事で、今は違うのだと思い知らされているようだった。
 新一を起こさないように床に落ちたそれらを身に付けていると、遠くで小さな振動音が聞こえた。それは携帯電話のバイブで、長く続くそれは着信を表している。時計は午前六時すぎを示している。志保は疑問に思いながら自分の携帯電話を鞄の中から取り出し、新一を起こさないように部屋を出てから電話を操作した。

「もしもし?」

 知らない番号の相手に小声で問いかける。

『おはよう、アイちゃん』

 受話器の向こうからは聞き覚えのある声が自分の源氏名を呼んだ。



 志保は乱れた髪の毛を指で整えながら、マンションのエレベーターを降りてエントランスを出ると、柔らかい朝日の下でヒトミが立っていた。シフォン地のワンピースにサンダルを来た彼女は店で見る姿と印象が違う。下ろした金髪が目立っていた。

「アイちゃん、もしかして起こしちゃった?」

 店の中で微笑むのと同じように、彼女はふわりと目を細める。志保は怪訝な顔をして自分より少しだけ背の低い彼女を見た。

「ヒトミさん。どうして私の家を…? それに携帯番号も」
「だってアイちゃん、働く時住所も携帯番号も馬鹿正直に書いてくれるんだもん。すぐに分かっちゃった」

 トラックが音と振動を残して道路を走り過ぎ去って行く。ヒトミは金色の髪の毛を手で掻きあげながら、志保に笑った。

「アイちゃん。あなたうまくやったのね。まさか工藤新一と寝るなんて」
「…どうして」
「昨日、店の近くでチューしちゃってさ。挙句の果てにお持ち帰りなんて、ばっかみたい。アイちゃん、あなたもあなただけど、ホステスにひっかかるなんて工藤新一もたいしたことないわね」

 志保はぐっと唇を噛み締める。自分の事はなんて言われても構わない。でも新一を嘲笑う態度を許せないと思った。何も知らないくせに好き勝手言わないで――。喉まで出かかった言葉を押し込めて、志保は挑発的にヒトミを見返した。

「そんな事を言うだけの為にこんな朝早くから来てくれたの? ナンバーワンのあなたのプライドを傷つけたかしら?」

 そう言い返すと、ヒトミが顔をゆがめ、アイを睨みつける。こんなに朝早いのに、彼女は化粧をしている。どれだけの執念でここに立っているのだろう。そんなことをぼんやり考え、志保は馬鹿らしくなってマンションに引き返そうと踵を返すと、

「灰原哀なんて嘘ばっかり。宮野志保さん?」

 遠くのクラクション音と一緒に声が響き、志保は思わず振り向いた。ヒトミは肩をすくめて、立ち止まったまま声をあげる。

「偽名にしてはよく作っていたわ。住所も番号も本当なのに名前だけ隠すって、何かまずいことでもあったの?」
「………」

 下手な事を言い出せば相手のつぼだ。志保は振り向いたままの姿勢でじっとヒトミを見つめた。ヒトミはそんな志保の態度を、驚愕と恐怖で黙り込んだのかと勘違いしたのか、少しずつ歩き、志保の前に立った。

「神経伝達物質の相対量を増やしてある疾患を治療できる医薬品」

 得意げに言い放ち、ヒトミは志保の白い頬に触れた。新一の指とは違う、細くて弱い指なのに今度こそ志保は動けない。
 ヒトミの口から、覚えのある医薬品名が語られた。志保は信じられない思いでヒトミを見る。そんな志保にヒトミは満足そうに微笑んだ。

「あなたの知りたい事を知ることができるかもしれないわよ。一緒についてくる?」

 ヒトミが言うのと同時に黒いワンボックスカーが停まった。志保は指先で首にかかったネックレスに触れながら、うなずいた。