3-6

 狭いベッドの軋む音が更に心臓を脈打たせる。殺風景のアイの部屋で、自分の吐息の音さえ鼓膜を、脳を揺らす。
 乱れる呼吸を繋ぎ合わせるように、目の前に広がる茶髪に指を入れ、顔を寄せてキスを落とす。汗ばんだ額に、頬に、そして唇に。 
 組み敷いたアイの唇から唇を離すと、既視感を覚えるようなまなざしで新一を見つめたアイが扇情的な笑みをこぼした。両手で新一の頬を挟むように撫でる仕草がキスをせがんでいるように見えて、飽きもせずに新一は何度も口づけを落とす。
 純粋に愛を信じる年齢はとうに過ぎ去ったはずだった。 
 新宿繁華街からどのようにしてこの部屋まで辿りついたのか、今となっては記憶が曖昧だ。酔っていたわけでもないのに、シャッターの閉まった宝石屋の前でキスをしてからの意識が混濁している。
 なぜ自分はアイを抱いているんだろう、と頭の中でもう一人の新一が冷静に問いかける。ただ手に触れられるもので今と言う時間を体感したくて、新一は可能な限りアイの全てに触れる。汗ばんで体温が低くなった頬にも、白くて細い肩にも、華奢なのに柔らかくて弾力のある胸にも、くびれのあるウエストにも、丸みを帯びた尻にも、形のよい足にも。
 アイは真実を話さないままだ。そして新一も目的を伝えない。お互いが探り合うようにして求め合う姿が滑稽だとしても、彼女に触れているうちはそれが新一の意識を照らす。いつからかは分からないけれど、きっと彼女とはずっとこうして触れ合いたかったのだ。
 不整脈患者のように心臓が脈打ち、呼吸困難に陥りそうになる。愛に溺れるとはこういうことなのか、と自嘲しながら、新一はゆっくりとアイの中に入り、アイはひと際高い声をあげた。
 自分が愛に溺れているのだとしたら、彼女はきっと愛に狂っている。その姿はとても美しく、嬌声ごと飲み込むように新一は彼女の唇に口付け、舌を絡ませた。
 ゆるゆると腰を動かしながら、その温かい場所に永遠に眠っていたいとさえ思う。だけど突き上がる衝動と脳天をぶち抜くような快感がそれを許さず、霧のかかった出口を探しながら、新一は息もかかるほどの近い距離で彼女を見つめ、そして囁く。

「アイ…」

 曖昧から抜け出さない方法を探るように、彼女の首元に顔を埋める。彼女の香りが鼻腔いっぱいに広がり、気が狂いそうになっても名前を呼ぶ事は許されない。

「アイ」

 新一の声に彼女があやすように新一の頭を撫でた。こんなに彼女の傍にいるのに近づけない。彼女の息遣いを全身で感じながら目を閉じて、声にならない声でつぶやく。
 本当は、彼女の本来の名前を呼びたかった。



 わずかに開けた窓から風が入り、薄いピンク色のカーテンが揺れた。

「この前、蘭と話してきたよ」

 もうすぐ七月に入るとはいえ、夜風は少し冷たい。汗が冷えて体温が逃げないように、ベッドの中で彼女の身体を抱きしめながら、新一は静かにつぶやいた。アイの肩がびくりと揺れるのを、新一は静かに撫でた。

「ちゃんと話してきた」
「…ちゃんと、って?」
「よくない別れ方をしたから。ほとんど恨みに近い感情があったんだけど、話したことで、やっと気持ちに整理がついたんだ」

 楽しかった出来事もあった。笑い合った日々も確かにあった。
 自分には大切な感情が欠落しているのだと思っていた。それは蘭と別れるずいぶん前からだ。新一はアイの髪の毛を撫でながら、唇を寄せる。アイはくすぐったそうに身をよじるが、新一の腕から逃げる事はない。
 まるで人間に戻ったみたいだ、と新一は思う。人の素肌がこんなに温かい事をずっと忘れていた。

「それで、これからどうするの」

 アイの無理やり作ったような落ち着いた声に、新一は彼女の顔を覗いた。

「これからって、蘭と?」
「ええ」
「どうもしないさ。また偶然顔を合わせる事があれば挨拶をするような、ただの幼馴染だ」
「あんなに大事に思っていたのに?」
「今でも大事だよ。でもそれだけでは一緒にいられなかったから」

 愛情の大きさと一緒に過ごす時間が比例するとは限らない。それでも十年という時間は確実に新一と蘭の間に距離を作った。そしてようやく江戸川コナンの頃に一緒に過ごせた宮野志保に再会し、新一は気付いたのだ。本当に一緒に過ごしたい存在を。

「アイ」

 窓の外から車のエンジン音が聞こえた。タクシーの音だろうか、無機質にドアが閉まる音が響く。
 新一がゆっくりとその名前をつむぐと、彼女は本当に灰原哀のような、江戸川コナンの傍にいた時のような顔で新一を見た。

「ありがとな」

 つぶやくと、アイは目を見開き、その瞳に少しずつ涙が浮かんできたのが分かった。

「…どうして?」
「なにが?」
「私、あなたに感謝されるようなことは何もしていないわ」

 少しずつ涙声になるのを聞きながら、彼女が泣くのを見るのは嫌いじゃないと新一は思う。どうしてだろう。蘭と同じように、彼女を大切に思うのも本当なのに。

「俺がきちんと蘭と話せたのは、おまえのおかげだよ」

 アイの柔らかい髪の毛の感触を指に馴染ませる。アイは指で涙を拭い、新一を見上げた。

「あなた、本当にお人よしにもほどがあるわ」
「どういうことだよ?」
「私と寝て、知りたかった情報は何なの?」

 再び演技がかった声。でもこればかりは許せず、新一は乱暴にアイの肩を抱き寄せ、強引にキスをする。

「――ふざけるな」

 自分でも驚くくらいの低い声が喉を伝った。
 いくら感情表現が豊かではない彼女の事でも気付かないわけがない。偽りの小学生の頃にどれだけ一緒にいたと思っているのだ。どれだけの感情を重ねたのだと。
 彼女の嘘に苛立ち、歯が当たるような荒々しいキスをし、唇を離すとアイが水分の多い瞳で新一をじっと見つめた。そして唇を固く閉ざす。きっと彼女に真実を話すつもりがない事くらい、分かっている。こんなに近くにいるのに心の距離を感じ、新一はアイの首元に顔をうずめたまま目を閉じて静かに息を吐いた。
 探偵など無力だ。証拠がなければ物事を決められない。そして、真犯人である証拠を掴む事より、犯人ではない証拠を見つける事のほうが何倍も難しいのだ。

「志保」

 今ここで、新一は彼女の名前を呼ぶ。

「おまえの事が好きなんだ」




 翌朝、彼女は新一の前から姿を消した。