初めてクラブに来店してから十日が経っていた。
依頼人である市川に話した通り、容疑者は三人。新人ホステスのアイ、ボーイの村上、そしてホステスのナンバーワンであるヒトミ。特に医薬品会社に属するアイは要注意人物だった。
「いらっしゃいませ、工藤さん」
ボーイに案内されたボックス席に座っていると、軽やかな声とともに肩の上に細い指が乗った。顔を上げると、金髪をアップに上げて首元の大きめのネックレスを目立たせたにしたヒトミが微笑んでいた。
「今日も眼鏡なんですね。初めて会った時と同じだ」
「…どうも」
「つれないなー、工藤さん。わたしのことなんて眼中にないのね?」
「いや、そんなわけでは…」
「そんなにアイちゃんが好き?」
ヒトミは新一の隣に腰をかけながら、黒羽と同じことを言う。
「妬けちゃうなー。ヒトミこんなに工藤さんのこと好きなのに」
ありがちな営業トークを繰り広げながら、ヒトミはテーブルの上にあったボトルに手を伸ばし、グラスにウイスキーを注ぐ。
「これ、快斗君のボトルですよね? この前快斗君怒ってたよー」
「知ってる」
「工藤さんが新しいボトルを入れてくれないのも、ヒトミ悲しい」
ヒトミは冗談っぽく笑いながら、ウイスキーと丸い氷が入ったロックグラスを新一に渡した。
「アイちゃんね、今別の席に呼ばれてるの。それまでヒトミで我慢してね?」
「まさかナンバーワンのヒトミちゃんが俺なんかの相手をしてくれるなんてね」
「やだなー、工藤さんの事が好きだからに決まっているじゃないですか」
ヒトミも新一の許可を取り、カクテルをボーイにオーダーし、お洒落な細長いグラスがテーブルに届き、乾杯をした。
「工藤さん」
カクテルを一口飲んだあと、濃い睫毛で瞬きをしたヒトミが寄りかかるように顔を近づけ、新一の耳元に唇を寄せる。
その隙に、新一は眼鏡の右レンズで発信機を付けた対象者が動くのを確認した。
「一体何を調べてるの?」
「…何の事?」
新一が持ち前の演技力でシラを切ると、ヒトミは顔を離して妖艶に微笑んだ。
「名探偵の工藤さんがこうも頻繁にクラブに来ているなんて、普通は疑いますよ」
「ただの遊びだよ。週刊誌読んだだろ? 彼女もいなくて退屈なんだ」
演技とはいえ、蘭との出来事を見知らぬ人間にネタとして提供しているなんて、自分自身に幻滅した。ヒトミの意味ありげな笑みを目前にして息を詰めていると、
「いらっしゃいませ、工藤君」
聞き覚える声に、新一は小さく安堵のため息をつく。
「アイちゃん、いらっしゃーい」
ヒトミは何事もなかったように軽やかな声でアイを出迎え、代わりに席を立って去って行く。その後ろ姿は完璧なホステスだった。
「工藤君、私も何か飲んでいい?」
「ああ」
アイのドレスは今日もシンプルなドレスだ。初日に見た黒いドレスで、胸元には何のアクセサリーも飾られていない。その分ボブカットの茶髪が映えている。
「アイ」
再度眼鏡の右レンズで発信機を確認し、
「今日、おまえをアフターに指名したいんだ」
このクラブで再会した夜のように、新一は言う。しかしその時とは違う表情でアイはじっと新一を見つめた。
少しの間を置いてからアイがゆっくりうなずいてボーイを呼ぶ。もうあの夜とは同じように、何も知らないままではいられなかった。
深夜一時。クラブが閉店し、新一は私服に着替えたアイの隣を歩く。狭い歩道にはキャバクラ帰りのサラリーマンや仕事帰りのホステスが疲労を引きずって歩き、まだ営業しているホストクラブの呼び込みが場所を占領していて、昼間の風景とは別世界のように忙しなく街が生きていた。
「アイ」
人混みを避けるように、夜間には営業していない宝石屋のシャッターの前で新一が立ち止まると、アイも黙ってシャッターを背に立ち、黙ったまま新一を見上げた。
「俺は、おまえの本当の事を知りたいんだ」
新一が眼鏡を外し、核心に迫る一言を新一が投げると、アイは口元を歪めるように笑った。
「それは、あなたが好物にしている真実ってこと?」
「…そんなわけないだろ」
茶化すようなアイの言い方に小さな怒りがこみ上げ、どくんと心臓が波打つ。
真実を見つけることが探偵として新一のできる唯一の事だった。でもそれは新一自身を救うわけではない。新一が真実を掴んだことで、誰かを傷つける結果に陥った事も何度もあった。真実が世の為になるとは限らない。
咎めるような新一の声に、アイの瞳の色が変わる。
「…言えないわ」
先ほどの茶化した声とは別の、低い声でアイは指で自分の髪の毛に触れながら小さくつぶやいた。それは昔、彼女が隠し事をしている時と同じ仕草で、
「なんでだよ」
そしてその隠し事はたいてい、灰原哀が江戸川コナンを守る為のものである事が多かった。
「あなたを巻きこめない」
道路の向こう側の歩道では酔った若者が数人、何がおかしいのか大声で笑っている。
「俺を信用していないからか?」
分かっていて訊ねてしまう。彼女が新一に真実を話さないのはそんな簡単な理由ではない。案の定、彼女は首を横に振り、再び新一をまっすぐ見上げた。
「あなたを愛しているからよ」
透き通った声に、ぞくりと背筋に何かが走る。
「…なんてね」
冗談の決まり文句さえ嘘に思えて、彼女の化粧も店内でのドレス姿も何かを映す瞳も虚像に見えて、新一はアイの肩を強引に抱き寄せた。
アイは畏怖することもなく抵抗するわけでもなく、新一の頬に触れた。彼女の翠色の瞳に困惑する新一の顔が映ったのが分かった。彼女の目が自分だけを見ている事に小さな満足感が脳に走り、そしていつかの店内で触れた手首のような冷たさを頬に覚え、引き寄せられるように彼女の唇に、唇を重ねた。