いつだったか蘭に訊かれた事があった。大切な人が犯人かもしれない場合はどうすればよいのか、と。新一は答えた。――俺だったらその人が犯人じゃないという証拠を死に物狂いで探すぜ。
「新一」
蘭の声が新一を現実に戻す。目の前をライトをつけた自転車がスピード出して走って行き、生ぬるい風が新一の前髪を揺らした。
「新一はいつも真実を見つけたよね。それがどんなに辛い事でも、新一は目を背けなかった。私、そんな新一を本当に好きだったよ」
車のライトで蘭の表情が照らされる。強く意思を持った瞳は揺るがない。正義の味方だったのは彼女のほうだ。その正義感に、新一はいつも救われていた。闇の世界を知っても彼女がいたからまっすぐに歩くことができた。
でも、もうそれも必要ない。彼女を傷つけていた事を知ったから。
「ありがとな、蘭」
帰る場所を作ってくれる蘭を、新一は好きだった。でも江戸川コナンとして彼女の傍で生活をしているうちに、蘭の弱さを知り、自分の存在が彼女を傷つけるだけだと知ってしまった。もう取り繕うこともできないところまで来てしまった。
新一が探偵と名乗っているうちは、彼女を幸せにはできない。
時間の流れと同じように、人の感情の行く先も不可逆だ。
「新一」
最後に蘭が新一の名前を呼ぶ。
「苦しい事があったら、いつでも遊びに来てね。話を聞くくらいならするから」
幼馴染としての蘭が無理やり笑う。震える声に、新一はゆっくりとうなずいた。彼女は新一のいた場所すら、変わらないように作ってくれようとしている。もう一度ありがとう、と言い、新一は今度こそ歩き出す。
以前に待ち合わせたのと同じホテルのラウンジに入ると、外の蒸し暑さとはほど遠い空調に新一はほっと息をついた。同じ席にはやはり出会った時と同じ席に、眼鏡をかけた市川が座っていた。
新一が声をかけると、市川は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。彼は一体どんな悪事を働いているのだろうと新一は考える。外面のいい人間ほど信用ができない事を経験しているが、それでも誠実そうな男が裏ではどんな顔を持つのか、興味がそそられた。
新宿の某クラブには株の不正取引売買に関わる容疑者が三名ほど浮かんでいる。
新人ホステスのアイこと宮野志保。そして村上というボーイと、店のナンバーワンであるヒトミだった。
村上はボーイの中でも一番礼儀正しく、客らも評判がよかった。名簿には二十三歳とあったが、爽やかな顔立ちはそれよりも若く見える。黒羽と初めて来店した時に出迎えたボーイで、新一も名前が挙がるまでは好感を持っていた。村上の趣味は株で、暇さえあれば携帯電話で株をチェックしていると経営者が苦情を漏らしていた。調べて行くうちに、彼の収入のほとんどが株によるもので、ボーイは趣味の一環に過ぎない事が分かった。何のためにボーイをしているのか。それは情報収集をする為だと新一は踏んでいる。
ヒトミは村上の女であるという情報も手に入った。もし株の情報がヒトミの耳に入っていれば、それを一定の客に売ることも可能だ。実際ヒトミには店以外でも秘密裏に動きがあることを掴んでいた。
それらの情報をもとに、新一は名前を伏せたままそれぞれが映った三枚の写真をテーブルに並べた。彼に知った顔があれば、疑いはより強くなる。
「…これは、宮野志保?」
テーブルに置かれたままの写真に視線を落とした市川は、アイの写真を手に取ってつぶやき、新一はどきりとして市川の顔をまじまじと見つめた。
「ご存じなんですか?」
「…いや。まさか彼女がこんなところで働いているわけない。しかし、我がグループの医薬品会社の研究者で、この顔そっくりの者がいるもので…」
信じられないと言った風に彼は言うが、全てを知る新一にとって、それはどう聞いても彼女本人の話だった。
「あなたのような管理職の方でも、グループ会社のただの研究員をご存じなんですね」
鎌をかけるように新一が訊ねると、市川はテーブルの上で両手を組んで、答える。
「いえ…。さすがに全員の名前を把握しているわけではない。ただ宮野は優秀な研究員で、私共の耳にも名前が届いています」
「優秀、とは?」
「まだ承認前の医薬品なのですが、彼女は非常に世の為になる薬を開発しました。あとは承認を待つだけという時に、彼女は休職を申し出たのです」
そわそわと落ち着きのない市川を見て、新一は考えを巡らせる。
株価の上昇、承認前の医薬品。パズルはまだ埋まらない。