3-2

 ――あなたが仕事を選ばないのは、世間に認められたかったからだと思うわ。

 蘭に出くわし、同伴出勤の前にアイにすがった夜。アイは静かにそうつぶやいた。
 誰にも悟られなかった感情に気付いてもらえた嬉しさと同時に、疑問が浮かんだ。

「…なんでおまえがそんなこと分かるんだ」

 甘いカクテルを飲み干し、新一がテーブルにうなだれると、志保は隣から新一の髪の毛に触れた。テーブルに伏せたまま顔だけ志保を見つめる。すると志保は緑がかった瞳を少しだけ細めて、微笑んだ。

「私と同じだからよ」

 ――同じ。
 汚いと分かっている仕事を分かっていながら引き受ける理由。そんな答えは知りたくなかった。
 彼女は、宮野志保は世間に認められたかったというのだろうか。その願いは新一とは方向性が違うだろう。組織内で無理やり薬を作らされ、それが人間を殺してしまう薬であったことを何よりも彼女は悔み、絶望を知ったはずだ。
 その絶望の果てに、今こうして彼女が過去と同じアイと名乗っているのだとしたら。彼女は仮の姿で過ごした時間さえも後悔しているのかもしれない。そう思いつき、新一の心は深く沈んだ。
 新一にとって、江戸川コナンとして過ごした日々をそれなりに大切に思っているのだ。それこそ初めの内は絶望でしかなかったが、仲間に出会い、蘭の傍で暮らし、そして灰原哀に出会えた事が新一の過去を照らしている。そこには確かな純粋な光景が広がっていた。その時間があるから、新一は今を生きていける。

「さて、そろそろ時間だわ」

 腕時計に視線を落としたアイが、バーの高い椅子から器用に降りた。これから彼女のクラブに向かう。彼女を疑いながら、今日も新一は捜査をするのだ。彼女を容疑者から外す為に。



 世の中には可逆的なものより不可逆的なもののほうが多いのかもしれない。時間の流れもその一つで、割れたガラスだって元に戻ることはないし、成長した骨格や筋肉が再び同じように縮むこともない。…例外を除いては。
 まだ空の明るい午後七時、外灯が少しずつ灯るのを眺めながら新一は久しぶりに自宅近くの米花町を歩く。運動不足は思考能力を低下させるので、歩きながら脳を働かせ、考え事をはかどらせるのだ。
 見覚えのある制服の高校生とすれ違う。よく見たらそれは十年前に自分が着ていたものと同じ、帝丹高校の制服だ。男女が二人、寄り添うように歩いている。高校生の頃の恋愛なんて、帰り道を共にするだけで大事件だった。抱きしめたりキスをするなんてもっての他で、手を繋ぐことすら大きな勇気を要した。
 初々しい高校生を眺めながら、自然に口元が綻ぶ。日差しは強いが頬を撫でる風が気持ちいい。
 そういえば十年前に小学一年生だった少年探偵団も、今では高校生だ。つい数年前までは博士の家に入り浸っていた彼らが、今ではすっかり足も遠のき、博士がしょんぼりと肩を落としていたのを思い出す。子供のいない博士にとっては彼らは自分の息子や娘のように可愛かったはずだ。それはきっと灰原哀も同じで、姿を変えたとしてもその愛情は変わらない。
 博士は、宮野志保が新宿のクラブで働いている事を知らない。世の中には知らなくてもいい真実がある。
 歩道のすぐ横をトラックが排気ガスを存分に吐きながら通り、新一はむせながら足を止めた。ガードレールに寄りかかり、空を見上げる。すぐ横にはビルが並んでおり、その中の一つの古びたビルの窓には、毛利探偵事務所との看板がある。その光景も昔から変わらない。その一階の喫茶店のメニューも変わらない。
 地球が回転するごとに嵐のように変わる世の中で、変化の見せない場所が存在することに感嘆とする。
 狭い歩道を、ガードレールに寄りかかる新一を避けるようにして通行人が足早に通り過ぎて行く。一日が抱える時間は二十四時間、それはみんな平等だ。せわしない空間に、新一だけ世間から取り除かれたように目を閉じる。今だけでもその時間の流れから身を遠のきたい。
 江戸川コナンとしてこの毛利探偵事務所で暮らしていた頃は時間の流れが違った。絶望と希望の狭間で、神経をすり減らしながらも一日がとても長く感じていた。
 気配を感じて新一は目を開け、その方向へ顔を向ける。立ち止まった彼女の長い黒髪がふわりと風に揺れた。

「蘭」

 新一が呼ぶと、蘭は立ち止まって目を見開いたまま新一をただ見つめた。