3.地平線の果て
宮野志保について調べるのは簡単だった。なんといっても彼女の親同然である阿笠博士が隣に住んでいるのだ。
彼女は十年前、新一の前から姿を消した後、米花町のほど近くのワンルームマンションを借りて一人で生活をしていたらしい。そして博士が斡旋した医薬品メーカーの研究職に就き、仕事に明け暮れていたという。博士とは時々メールなどで連絡をとっていたみたいだが、彼女が米花町にある阿笠邸に帰って来る事はほとんどなかった。
博士からひと通り教えてもらい、新一は彼女について何も知らなかった事に愕然とした。何も知ろうと思わなかった。組織に縛られ、そして組織の追手に怯えていた彼女はようやく自由の身になり、ただひとりの人間として生きて行こうとしたのだ。それに新一は新一で、不在だった頃のブランクもあり、そして初恋を叶えたことの高揚感から、志保を気にする余裕もなかった。
今となれば、全てただの言い訳にすぎないけれど。
仕事をする片手間で、極秘情報を取り扱わない時は近くのカフェに仕事を持ちこむ事がある。ずっと事務所で事務作業をしていると気が滅入り、鞄に入っている読みかけの推理小説が気になってしまうなどして集中力が欠けてしまう事があるからだ。
そのカフェは適度な明るさの照明で、テーブルの大きさも程よく、平日の昼間は客も多くないので仕事しやすい。
「よっ、工藤!」
軽快な声に嫌な予感が先走り、顔を上げると案の定そこには黒羽が立っていた。
「…何してるんだよ、おまえ」
「工藤がいるかなーと思って」
手には生クリームが乗ったドリンクとは呼べない代物を持って、それを見た新一が胸やけを起こしそうになるのも構わず、黒羽は新一の前の席に座ろうとした。新一はため息を就きながらノートパソコンを一度閉じる。
「いやぁ、予想通り、今日あたりここで仕事しているかなぁと思って来てみたら正解」
「おまえ暇なのか? 仕事はどうした」
「仕事の合間に決まってるじゃーん」
新一の知る限りだと、黒羽はもうすぐマジックショーのツアーを控えているはずだった。こんな場所にのこのこ現れるような暇人ではないはずだ。もっとも、元白い怪盗である彼が神出鬼没な事に今更驚くわけでもないが。
「おまえ、今もあのクラブに通って律儀にアイちゃんを指名してるんだって?」
「何の情報だよ」
「ヒトミちゃん。昨日行ってみたらさー、ヒトミが興奮気味に話してくれた。ていうか、おまえ俺のボトル勝手に飲むなよ」
黒羽は生クリームを長いスプーンで掬くいながら、新一を睨んだ。
「それにしてもおまえらしくないよな。工藤ならもっと効率よく仕事を片付けるタイプだと思ったんだけど。こうも何度もクラブに通うなんてさ」
「…サーストンの法則か?」
「ああ」
黒羽の言う通り、何度もクラブに通うのは危険だ。一応毎回アイを指名しているが、名探偵と謳われている工藤新一が何度も同じクラブに足を運ぶ事を不自然に思う人間はいるだろう。特に株の取引に加担している人間は警戒心を強めているに違いない。
事実、その可能性に当たる人間が数人浮かんでいた。あとは依頼人とどのように接触させるか検討中だ。
「そんなにアイちゃんが好き?」
聞こえた言葉を流すように、新一はテーブルに置いてあった氷の解けたアイスコーヒーを飲み込む。
「ああ、違ったっけ。志保ちゃんだったよな。おまえの相棒」
「…もうそんなんじゃねーよ」
相棒と言ったのは自分で、一方通行だ。そして好きだとか嫌いだとか、そんなに単純な感情ではないのだ。命がけでこの身体を取り戻すために戦った同志で。
「おまえ、ほんっとに嘘つくの下手な!」
「そりゃ、おまえのポーカーフェイスほど上手くはできねーよ」
憎まれ口を叩くと、黒羽は可笑しそうに笑い、甘い物体を飲み干す。
「工藤、気付いてた? ある医薬品会社の株価が上昇し続けている」
打って変わった真剣な黒羽の声に、新一は顔をしかめた。
「…ああ」
そんな事にはもうとっくに気付いている。
依頼人である市川が属する財閥グループの傘下にある医薬品会社、それは宮野志保が働く研究所の医薬品メーカーでもある。株主向けのIR情報などを見ている限り、株価が上昇する理由は不明だ。そのうえで成り立つ株の売買には問題ない。ただしそこにインサイダー取引が介入しているのであれば、話は別だ。
黒羽は厳しい視線を新一に寄越した。新一も一つの結論を見出していて、それを否定しようとこの数日の間は躍起になっている。
医薬品メーカーの研究所に属する宮野志保が自社の情報をこのクラブで横流しにしている可能性だって否定できないのだ。それ以外に彼女がホステスとして働く理由が思い当たらない。
現に宮野志保は医薬品メーカーを休職中との事だった。未だに退職していないのが何よりも証拠だ。つまり、宮野志保は株の闇取引に関与している容疑者になっているのだった。