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 とてもじゃないがレストランで食事をする気分にならず、アイの言葉に甘えて新一はアイとバーに入り、アルコールの弱いカクテルを頼んだ。

「何も訊かねーの?」

 思えば醜態をさらしてしまったと気付き、今になって少し気まずい。物理的な距離では蘭と一緒にいたけれど、工藤新一として彼女に会えなかった時間。灰原哀はいつも二人を気にしていた。工藤新一の身体を取り戻した時、誰よりも早く蘭に会うように哀は新一の背中を押した。
 新一だってその時は永遠を信じ、そして愛を信じた。両親のようにいつまでも蘭と過ごし、そのうち家庭を持って人生を共にするのだと根拠もなく考えていた。

「あなたが話したくなるまで待つって言ったでしょ」

 アイのトーンの落ち着いた声に、ずるい女だ、と新一は思う。訊いてくれたら話せるのに。この感情ごと受け止めてもらいたいのに、それができない。
 新一は心の預け方を知らない。ある意味両親からの愛情を受けて育ったと自負しているが、その一方で早いうちから自立心を持たないと生活できなかったからだ。
 甘いカクテルを少しずつ口に含み、隣にいるアイを横目で見る。

「慰めてよ」

 バーの空調はクラブとは違い、心地よい。隣にある細い肩に頭を寄せるとアイが息を飲んだのが分かった。

「まさかそれっぽっちで酔ったとは言わせないわよ」
「…酔ってねーし」
「別に慰めるのはかまわないけれど、私はホステスだから話を聞くくらいしかできないわよ」

 新一とアイの距離を明確にされ、新一は目を閉じる。
 相棒だったはずじゃないか、と言いかけてやめる。そんな関係性を引きずっているのは自分だけかもしれない。過去を語れば、彼女はきっと自責の念に襲われるはずだ。灰原哀とは、宮野志保とはそんな女だった。

「アイ」

 バーに流れるジャズが耳を撫でて、彼女の名前を呼ぶ自分の声を聞く。

「どこでどう間違ってしまったんだろう…」



 初めは蘭の心配をほのめかす言葉から始まった。
 刑事事件とは別の仕事。探偵としてどう関われるか。依頼者全てが善人だとは限らない。警察沙汰にしたくないのは被害を被った依頼者が、別の案件では加害者である事もあった。それを黙認しながら新一は仕事を続けた。殺人や詐欺など明らかな罪ならともかく、法律というものは複雑で、新一がそれを暴いたところで裁判にすら持ち込めないものもたくさんあった。法と法の隙間を抜けるように、世の中にはたくさんの悪意が混在していた。

「危ない事はして欲しくないの」

 探偵事務所を設立してから少しずつ仕事の質に変化があらわれていることに気付いていた蘭が、小さくつぶやいた。

「新一はもっと、世の中の正義の為に仕事をしていたはずだわ」

 彼女の声が新一の心を抉った。
 高校生探偵ともてはやされたいた頃、当時は勘違いしていた。自分の能力や世間の声を。それでも自分自身を持て余して、蘭の言う通り正義を信じて、結果的には工藤新一の人生を半年間失ってしまった。
 工藤新一から離れて江戸川コナンとして生活している内に出会った数々の事件を冷静に分析し、新一はようやく世間を垣間見ることができたのだ。
 蘭の言葉は、探偵としての新一の自尊心を傷つけた。でもそこに悪意はないのだ。蘭は本気で新一を想い、心配してくれた。蘭を振り回す新一を責めた事などほとんどない。完璧すぎる恋人だった。
 分かっていながら、新一はひどい言葉と共に蘭を突き放してしまった。



 流れてくるジャズの隙間に声が落ちる。

「まるで迷子になった子供みたい」

 アイの肩に頭を預けたままの新一の髪の毛に触れながら、アイが小さくつぶやく。

「あなたは本当に、今を間違いだと思っているの?」

 アイの言葉に、新一は顔をあげてアイを見つめた。正面から。
 間違いだと思っていた。そうでなければならないと思っていた。荒んだ日々は色もなく、何の感動も与えられないままただ過ぎて行く。息を切らした事すら気付かないまま新一は奔走してきた。
 手段と目的を取り違えているのだと分かっていながら、探偵である自分を守るためには多くものを犠牲にしなければならず、さらにそれが新一を苦しめた。

「間違いじゃなければ何だっていうんだ? あの週刊誌を読んだんだろ? 俺は蘭にもひどいことをした。世間に褒められない仕事の仕方をしている。おまえの事だって…」

 半分の量になったカクテルの細いグラスを両手でぎゅっと握り、水滴が手の平に滲む。

「おまえの事だって、きっと失望させるんだ」

 幼い頃から一緒にいた蘭も、両親でさえ新一を理解していないのに、どうして彼女には感情が溢れるのだろうか。そしてなぜそれを言葉にしてしまうのだろうか。何よりも失望されるのが怖いと分かっていて、どうしようもない自分を知って欲しいと思う。
 沈んだ新一の声に、アイはふと笑った。

「あなたが仕事を選ばないのは、世間に認められたかったからだと思うわ」

 失望なんてしない、とアイがつぶやくのを聞き、新一は握ったグラスの中身を飲み干す。甘い液体が胃全体に広がった。