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 初恋は叶わない、というジンクスを見事破ってみせたのだ。
 幼い頃から傍にいた黒髪の少女に恋をした。時にはその感情に左右され、振り回され、その胸の痛みさえ甘く感じた。彼女の笑顔を見れば世界に色が咲き、彼女より大きくなった手で彼女を守りたいと思うようになった。
 困難な出来事は甘い恋心を加速する。会えない時間は更に想いを募らせ、その恋の弊害を振り切って彼女を手に入れた時の幸福さはきっと忘れられない。そして甘い毒に侵され、信じてしまった。――永遠を。

「昨日はどんな事件だったの?」

 工藤邸のソファーに座って事件の書類に目を通す新一に、隣で蘭は静かに訊ねた。
 仕事だ事件だと蘭を後回しにしても、彼女は怒らなかった。実際大学二年生の頃に新一が探偵事務所を設立し、忙しく駆け回っていた時でさえ、いつも笑顔で帰りを待っていてくれた。離れていた時の事を思えばこのくらい平気だよ、と言って笑った。
 我慢をさせていた事は知っていた。でも新一から事件を取り除くことは不可能なのだ。
 蘭の問いに新一が顔をあげると、蘭は甘えるように新一の肩に寄りかかる。彼女の長い髪の毛を首元に感じながら、新一は目を閉じる。
 高校生の頃のようにマスコミに顔を出さなくなって数年経っても、世間は工藤新一を忘れない。工藤新一に幼馴染である恋人がいることも週刊誌に書かれてしまったくらいだ。どうしようもない自己顕示欲を持て余すのと同時に、芸能人のような扱いに新一自身がうんざりしていた。
 そう、新一は疲れていたのだ。
 次々と起こる事件にも、動機を持った犯人にも、その責任を押し付け合う関係者にも、新一の能力を僻む人間にも、世間の称賛にも、そして新一を何よりも一番に考える蘭にさえ。
 探偵事務所を設立していから刑事事件と少し離れた場所で仕事をするようになってから、闇の世界を知った。そこはいつか仮の姿で駆けまわっていた血生臭い場所と似ていた。そこで怪盗キッドの正体である黒羽快斗に出会い、他にも裏社会で生きる人々との利害の一致で事件を解決していくうちに、自分の歩いてきた道はただの平たい一本道で、本当は表にも裏にも道が繋がって一つの世界が形成されている事をようやく理解した。



 変化を遂げたのは世界ではなく、新一自身である事を指摘されて初めて気付いた。

「新一は変わっちゃったね」

 もう蘭とソファーで寄り添うこともなくなったの半年前のある夜、十二月の寒空の下の道端で立ち止まった蘭がぽつりと言った。閑静な住宅街の中で、周りにはクリスマスのイルミネーションが色とりどりに光を放っていた。

「私はもっと生き生きとしていた探偵の新一が好きだったよ」

 幼い頃から探偵になることを夢見ていた。そして夢は叶った。夢を叶えた後、人はどこへ向かっていくのだろうか。
 蘭の言葉に新一は思わず喧嘩ごしになり、言い返した。――そんな飄々と現状を楽しめるような能天気な探偵がいいなら、おまえはもういらない。そんな罵声を浴びさせてしまったかもしれない。怒りとも悲しみとも違う、だけど確実に何かから突き落とされたような感覚で頭がいっぱいになった時、自分が誰よりも大切にしていた幼馴染にどんな酷い言葉を投げたのか、その時暗闇の下で首元のマフラーをぎゅっと握った彼女が、イルミネーションに照らされた光の中でどんな表情を見せたのか、新一は思い出せないままだ。



 世間から守られたフィルターの向こう側で、記憶の中と変わらない蘭が新一とアイを交互に見つめ、控えめな笑顔を見せた。

「久しぶりだね」

 ああよかった、彼女は笑っている。まずそう考え、もしかしたら最後に見た彼女は泣いていたのではないかと新一は考える。でも上手く声が出ない。最後の彼女の言葉が、暗闇の中のイルミネーションの光が頭に焼きついて、今だって自分は彼女に誇れることなど何もしていないのだと新一は無言のまま視線を逸らす。

「工藤君…?」

 慌てて新一の手を離したアイが戸惑ったように声を出し、そして蘭の方に向いたようだった。

「すみません。初めまして、宮野志保です。彼とは事件でちょっと」
「…毛利蘭です。新一とは幼馴染で」

 他愛のない会話の中にアイの正体が見えて、新一はいたたまれなくなってゆっくりとその場を去った。

「ちょっと工藤君!?」
「新一!」

 二人の声に、新一は二人に背中を向けたまま、歩き出していた足を止める。
 蘭の、アイの声を聞くのが怖い。自分は彼女達の知る工藤新一ではない。どこでどう変わってしまったのだろうか。確かに一つの道を歩いてきたつもりなのに、ずいぶんと遠い場所に来てしまったように思う。

「ごめんなさい、新一…」

 蘭の声が悲痛に響く。一体何に対しての謝罪の言葉なのか。蘭の言葉なのか、週刊誌に書かれてしまった事なのか、考えたくもない。

「ごめんなさい…!」

 高校生の頃、彼女の笑顔を見ると確かに世界は笑ったのだ。なのに今の彼女は笑顔にならない。自分のせいだ。
 彼女の涙声はむしろ新一の心に負荷をかけ、ますます世界は閉じていく。

「そんなのいらない…」

 背中を向けたままそれだけつぶやき、新一は歩き出す。
 ビルの隙間から空が落ちてくるように、夜がやって来る。もっと早く太陽が沈んで、そして永遠に昇らなければいい。夜の世界は闇にも似た感情を消してくれるから。

「工藤君!」

 アイの声とともに街のざわめきが鼓膜を揺らし、新一は我に返った。振り返るとワンピース姿のアイが新一に追いつき、新一の手を掴んだ。
 何を訊かれるのだろうか。いつかの週刊誌の内容を思い出す。今度こそ軽蔑されるかもしれない。黙ったままアイを見下ろしていると、アイは汗ばんだ前髪を片手で整えてから、

「食事連れて行ってくれるんでしょう? それとも、食欲なければ別プランを立てる?」

 彼女は完璧な微笑みを見せた。
 遠すぎると不安になり、近すぎると葛藤してしまう。新一はアイの手を再び握り返し、ゆっくりとうなずいた。この距離感がたまらなく心地よかった。