東京の夏はヒートアイランド現象により、街じゅうに熱と湿気がこもっている。
そんな空気の中でも仕事柄スーツ姿を外せない新一は汗を拭いながら、様々な依頼された捜査へと駆けまわっていた。
「おや、工藤君じゃないか」
地下鉄への階段を降りようとしていた矢先に、後ろから聞き覚えのある声に呼び止められ、新一は振り向いた。
「目暮警部…」
「久しぶりだな。元気にしとるかね」
「警部こそ。ご無沙汰しています」
新一は深々と頭を下げる。そんな新一の姿を見た目暮は、昔と変わらない帽子をかぶったまま豪快に笑った。
「君の噂は聞いとるよ。相変わらず忙しそうみたいじゃないか」
「そんな…」
以前こそ警察の協力をもらう形で仕事していた。だけど大人になるにつれて、刑事と探偵の違いを理解するようになり、その差を明確化するためにも仕事に線を引いた。そもそも一般人の括りである探偵が警察と一緒に仕事をすること自体が珍しいのだ。
それでも幼い頃からの知り合いであり、かつ高校生の頃の探偵業にも協力をしてくれた目暮に対して新一は今でも恩を忘れない。
高校生の頃は、それこそスーパーマンにでもなったかような錯覚に陥り、名探偵を気取っていた。マスコミを拒む事もなく、むしろ目立つ事に喜びを感じていた。自己顕示欲の塊だった。今ではそれを恥ずかしく思う事もあるが、でもあの頃の自分を新一は否定できずにいる。
それほど工藤新一という存在を、その頭脳と能力を、新一自身が持て余していたのだ。
「あまり無茶をするんじゃないよ」
目暮は新一の肩をポンと叩き、同行していた刑事と共に路上に停めてあったパトカーに乗って行った。新一はそれを見送り、一呼吸してから今度こそ地下鉄へと繋がる階段を降りた。
懐かしい人に会うと、一緒になって思い出される感情がある。それはとても苦しいものだ。そんなものを抱え込むくらいなら、最初から何も感じずにすればいい。
タブレットや資料の入った鞄をぎゅっと握りながら、新一は今日調べた事を脳内で反芻しながら階段を下る。思考も一緒に落ちて行くようで、尚更憂鬱になった。
ホームに降りてから腕時計を見る。今日はアイと約束をした日だ。
調べていくうちに、アイのいるクラブの系列の中で莫大な金が動いている事が発覚していた。だけど証拠がないので、まだ捜査は終わらない。
むしろ捜査が終わってしまった後の事を考えた。数回クラブに通っているうちに容疑者は浮かんできている。そして捜査をしながら、何故アイがここで働いているのか何度も気になっていた。
宮野志保という根っからの科学者がホステスをしているには理由があるに違いないと新一は踏んでいる。何度か鎌をかけてみたが、アイは口を割ろうとはしなかった。その理由についても新一は一つの仮説を立てていた。
待ち合わせである新宿駅西口の広場に着くと、淡いピンク色のワンピースを来たアイが立ったまま空を見上げていた。その光景を目に焼き付けてから、新一は彼女に駆け寄った。
「悪い、待たせたな」
新一の声にアイは振り向く。癖のかかった前髪が生ぬるい風によって揺れた。
アイの前に立つと、ドレス姿の彼女とは違い今日の彼女はヒールを履いていないからか、身長差が顕著に感じた。ふと手を伸ばし、彼女の手首を掴む。
「…何?」
相変わらず細い手首は、今日はそんなに冷たくない。冷房の下でなければちゃんと温度の通った彼女の体温に安心し、アイの怪訝な声にも気に留めず、そのまま指を絡めるように手をつないだ。俗に言う恋人繋ぎだ。
「ちょっと、何?」
先ほどよりも強い口調の彼女の事も気に留めず、新一はその体温でアイがちゃんと生きている人間であることを確かめる。自分でも馬鹿みたいだと思うが、この再会が時々夢のように感じてしまうのだ。二度と戻れない自分が作り出した幻なのではないかと。
「何が食べたい?」
新一は聞く。アイはしかめ面のまま、今流行りの三つ星レストランを答えた。そういえば十年前もそのレストランは女の憧れだと彼女は冗談で言っていた事を思い出す。当時は子供の姿だった為二人で行くこともなかったが、今では連れて行くことが出来る。いいぜ、と新一が答えると、冗談だったのかアイは驚いたように新一をまじまじと見つめた。
「分かってるの? 普通の値段じゃないわよ?」
「そのくらい、高級クラブのホステスとの同伴なんだから覚悟しているさ」
「…あなた、馬鹿だわ」
新一が握っていたはずのアイの手は、いつの間にかアイによって固く握られている。
「私なんかにそんな無駄なお金を使わなくたって、もっと円滑に捜査できるはずだわ」
彼女の口から初めて出た捜査という単語に、新一は口を閉ざす。
…やはり気付かれていた。それでも彼女と過ごす時間を打ち切るつもりもない。新一は彼女の手の平の体温を感じながら、言葉を探す。うつむいたアイの声が震えていた事が気にかかった。
「アイ…」
新一は彼女の偽の名前を呼び、繋いでいない方の手で頬に触れる。やはり幻のように、今にも彼女が消えてしまいそうに思った。――十年前、本来の姿を取り戻してからいつの間にか新一の前から姿を消した時のように。
都会の湿っぽい空気がまるで新一達にシェルターをかけたかのように、耳鳴りさえ覚えるほどの異空間を感じた。アイを、志保を手離したくないと思った。
「私なんか、って言うな。俺が悲しくなる」
アイが新一の手を離さないのはプロのホステスだからであり、触れる体温が疑似恋愛のひとつだと分かっていたとしても。
「おまえがこの十年間どう過ごしてきて今に至るのか知らねーけど、一生懸命だった事は俺にでも分かるよ」
アイの頬に指でなぞりながら新一がつぶやくと、アイは揺れる瞳で新一をじっと見つめた。それは一瞬のような、とてつもなく長い時間のような、奇妙な時間の流れに思った。
彼女の真実を知りたい。彼女の中身を暴きたい。猛烈にそう思った。この仕事を奥深いと言ったその言葉が本当であるといいと願った。彼女はいつだって自分の先を歩いている。それでいい。――それがいい。
白い頬に触れていた手を離し、アイの手を握ったまま歩き出そうとした、その時。
「――新一?」
二人を囲っていたシェルターが一つの声によって破られ、新一は足を止めた。
「蘭…」
それは半年ぶりに見る、初恋の相手であり、元恋人の姿だった。