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 ――新一は変わっちゃったね。

 遥か昔の声に、新一は目を覚ます。
 窓の外は明るい。ベッドの枕元に置かれた時計が示すのは早朝五時。まだ起きるには早いのに、体中が汗で気持ち悪く、のそりと起き上がった新一はベッドを降りた。部屋中の空気が水で濁ったように蒸し暑い。
 何よりも守りたいと思っていた笑顔が、悲しそうに歪んだ。そうさせたのは自分だ。頭では分かっている。頭をくしゃくしゃと掻きながら、階段を降りてコーヒーを淹れた。
 携帯電話を確認すると、ホステスのヒトミからメールが入っていた。昨日の夜はヒトミも席についたので、その営業メールだった。夜の蝶と称される彼女達は、クラブ以外の場所でも努力を惜しまない。アイが新一にメールを送る事はないが、アイもホステスとして、他の客には同じように甘いメールを送るのかもしれない。実際、昨日はアイもいくつかのテーブルに指名されて、新一の席から外していた。
 虫唾が走る。でも新一にそれを止める権利などない。今はもうただの無関係な客とホステスだ。
 リビングのソファーに座った新一は、コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置き、そしてテーブルに置きっぱなしにしてあった財布から名刺を取り出す。初めてクラブに足を運んだ夜に渡された名刺には、アイという文字と店名、そしてアイのメールアドレスが記されていた。
 店とアフター以外でアイを指名した事はない。今無性に彼女に縋りたくなったのは、思い出したくない出来事が夢として新一を襲ったからだ。
 自分に言い訳しながら短いメールを送ると、意外にも着信が鳴り、一瞬携帯電話を落としそうになるのを堪えて新一は画面を指でスライドさせた。

「も、もしもし?」
『朝早くに、なんなの?』

 不機嫌そうな声は、普段聞くものより低く、新一は思わず笑った。

『何?』
「いや、悪い悪い。あまりにも眠そうな声だったからさ」
『誰かさんが朝からおかしなメールを送るからでしょ』

 だとしても、メールで送ったものなど寝ていた事にして返事は後にしても問題はないはずだ。むしろこの時間であればそれが普通で、すぐに返事がないからと言っても文句を言えるはずもない。なのに律儀に電話で返事をしようとする彼女に、新一は救われた気分になり、ソファーに体重を預けた。

「おかしなメールって何だよ。おまえとデートしたいって言っただけだろ?」
『頭でも打ったの?』

 冷たい声すら新一に安心感を与える。確かに彼女は滅多に笑わなかったけれど、いつだって仮の姿をした新一の傍にいてくれた。新一の欲しい言葉をくれた。世間から逃れるように生きていた自分の、確かな居場所だったのだ。

「なぁ。同伴出勤でいーからさ。飯食いに行こうぜ」
『あの純粋無垢な高校生探偵が、今じゃホステスと同伴なんて、ファンが泣いてるわね』

 ――新一は変わっちゃったね。
 夢に出てきた長い黒髪の少女が脳裏に浮かぶ。彼女の言う通り、きっと新一は変わってしまった。そんなことは自分自身が一番よく分かっている。

「もうそんなんじゃねーよ…」

 独り言のようにつぶやいた言葉が、思いがけずしっかりと口に出てしまったようだった。
 捜査の事を彼女に話していないからといって、彼女に縋っている自分に笑いだしたくなる。何が彼女を巻き込まない、だ。今になって黒羽の言葉を理解できる。でももう引き返せない。
 受話器の向こうでアイがふっと笑ったのが聞こえ、新一は受話器を握った。

『いいわ。食事に行きましょう』

 窓から差し込む日差しがどんどん強くなり、リビングの色が変わっていく。
 まるで初めてのデートを申し込んだ男子高校生のように、新一の心臓は脈打ち、そのままソファーに身体ごと倒れ込んだ。

『もしもし、工藤君?』

 怪訝な声が聞こえるけれど、上手く返事ができない。これは仕事の一環なのだと意味のない言い訳を頭の中でつぶやき、新一はサンキュ、と笑った。
 これでは本当にホステスに恋をしてしまった馬鹿な客みたいだ。
 適当な挨拶を交わして電話を切り、リビングの窓を開ける。思ったより涼しい風が新一の頬に触れる。誰をも平等に照らしてくれる朝日は、自分という人間を正常に戻してくれる気がした。
 新一はリビングの奥にある書斎に入り、今日のスケジュールを確認する。寝不足の頭を回転させながら、資料を集めようと本棚に手を伸ばした。