1-3

 ――遡ること二日前。
 新一の仕事用の携帯がいつものように鳴った。依頼の電話だった。一応事務所を構えてはいるものの、若気の至りで名前が売れてしまった為に敢えて看板は外に出していない。全ての依頼はこの携帯電話に。工藤新一探偵事務所の窓口は人づてにしか伝わらない方法となっていた。
 依頼相手と簡単に話し、待ち合わせの場所を指定し、そこで詳しく話を聞く事となった。
 探偵事務所を設立したのは、二十歳のまだ大学生の頃だ。その時は高校生探偵を気取っていた頃と同じように警察も頭を悩ませるほどの事件――主に殺人事件だ――に関与していたのだが、新一の推理力はもちろん、何事も見逃さない洞察力やちょっとの事では動じない精神力が買われ、今では警察には持ち込めないような依頼が主に舞い込まれるようになっていた。
 指定したホテルのラウンジの奥の席にいた男は、父親より少し若いくらいの年齢に見えた。新一の姿を見るなり、席を立ち、深く頭を下げた。

「実は弊社の株の闇取引が行われているのです」

 その男が差し出した名刺には、誰もが聞いた事のある社名と幹部を表す役職、そして市川と書かれた名前があった。もしかしたら偽名かもしれないが、新一は市川と名乗る男の言葉を黙って聞く。
 日本を代表する財閥グループ会社の一つのインサイダー取引。株の不正売買が本当だとしたら、それは証券規制に関わる法律にも引っ掛かり、裁判に持ち込まれば刑罰を受けることもあるだろう。なぜこの市川がそういう正当法を持ちこまずに敢えて探偵である新一に打ち明けるのか。理由はただ一つ。市川にも他の悪事に加担し、芋づる式にそれが発覚するのを恐れているのだ。
 当然名探偵と謳われる新一がその悪事を暴くのも難しくはない。ただ新一にはそれを取り締まる権限はない。新一は刑事ではなく、あくまで私立探偵なのだ。
 株の不正売買した者は社員なのか、はたまた外部の人間なのか定かになっていないとの事だった。
 捜査をした結果、その金の行き先は水商売で盛んな新宿の一角にあり、例の株の売買にはとあるクラブが関与している事を突き止め、新一は客として潜入捜査に乗り出したのだ。



 午後九時を過ぎるとクラブ内は賑やかになり、ナンバーワンであるヒトミは行ったり来たりと忙しそうにしていた。ヘルプとして席についているアイはやはり新人で指名もないのか、新一の隣に座ったまま、当たり障りのない会話をしていた。
 主に黒羽とアイの会話に耳を傾けながら、元々お喋りでもない彼女がなぜこの職業についているのか、新一は考えを巡らせる。
 元々宮野志保は頭の回転も速く、雑学にも長けている。それは黒羽との会話を聞く前から分かっていた事だった。焚かれたお香の匂いが鼻につく。誤魔化すようにウイスキーを飲む。落ち着いたBMGが流れているが、客の声によってほとんど掻き消されている。
 やがてヒトミの代わりに一人のホステスが快斗の隣に座り、再び新一は名刺を受け取る。いくら捜査初日とは言え、これでは捜査にならない。周りの客の様子やボーイの様子をうかがうが、これではとてもじゃないけれど分からない。
 さてどうしようか…、と嘆息を漏らした時。

「え? 工藤って、工藤新一さんなんですか?」

 彼女にはどうやらヒトミほどのプロ意識がなかったようだった。興味深そうに新一の顔をまじまじと見つめた後、

「ちょっと前の週刊誌を読んだんですけれど、あれって本当なんですか?」

 悪気もなく放たれた言葉に、新一も黒羽も唖然とするしかなかった。表情を引きつかせながらも新一は苦笑し、答える。

「本当だよ」
「えー、工藤さんってそんな悪い人に見えないんだけどなぁ…。じゃあ今はフリーですか?」

 アタシ彼女候補しちゃおうかなぁ、などと能天気につぶやいているホステスに更にため息をつくと、反対側に座っているアイに肩を叩かれた。

「工藤さん、大丈夫ですか? 少し酔っぱらってるんじゃない?」

 アイが新一の顔を覗きこむ。
 ランドセルを背負った哀が同じ背の高さだった別の名前の自分を気遣うような錯覚に陥った。紛れもなく今の自分は工藤新一だというのに。

「あ、ああ…。悪い」

 そんなに酒を飲んでいるわけではない。しかし新一が立ち上がるとすかさずアイも立ち上がり、トイレの場所を案内した。客席から少し離れた場所にある薄暗いトイレの洗面所で新一は顔を洗い、すっかり酒は覚めてしまう。
 まず新一が考えていたのは、株の売買をしている者は客としてこのクラブに出入りしているのではないかということだった。その客がホステスを通じて、他の客に情報を流しているのかもしれない。だったらしばらく通わないければならない。それとももしかするとクラブ経営に関与する者に情報が流れているとしたら。ボーイか、厨房の中か、それともこのクラブの経営者と親しくて滅多に表に出ないのか。そうなったら捜査方法は別に考えなければならない。仕事の事で頭いっぱいにし、先ほど耳にした情報を排除しようと努める。
 トイレのドアを開けると、アイが湿った手拭きのタオルを持って立っていた。それを受け取ると、程よい温かさが水で冷えた手に染みた。

「大丈夫?」

 先ほどと同じ問いをアイは投げかけた。でも新一が本当は酔っぱらっていない事をアイは気付いている。新一も、彼女は昔からそういう目敏さを持っている事を知っている。

「ああ、悪いな」
「私もあの週刊誌を読んだわよ。あなたを陥れようとするにはずいぶん悪趣味な記事だったわ」
「宮野」

 新一はタオルによって体温が通った手でアイの手首を掴んだ。主に背広姿の客に合わせた空調に肩を出したドレス姿では寒いのか、アイの体温はひどく冷たく感じた。

「さっきも言った通りあの記事は本当なんだ」
「…二度とその名前で呼ばないでって言ったはずよ」

 アイの冷たい声に新一は手を離す。アイは先に新一に席に戻るように視線で促し、新一が歩くとアイも新一の後ろをついてきた。本当に徹底している。
 あの記事を口にする事は楽しいことではない。もちろん腹立だしく思った時もあった。その感情ごと、アイに話を聞いて欲しくなったのだ。
 新一はフロアを歩いていた足を止め、振り向き、薄暗い照明の下でもう一度アイを正面から見つめる。

「アイ」

 今度は彼女の求める名前を呼ぶと、アイは目を丸くした。

「おまえをアフター指名してもいいか?」

 新一が言うと、指名された事を喜ぶホステスの表情とは到底遠い表情で、アイは眉をしかめてうなずいた。