アイと名乗った女は、持っていた小さな鞄から名刺を取り出し、新一と快斗に一枚ずつそれを渡す。上等な和紙に印刷された名刺の中央には「アイ」と書かれている。
新一は信じられない面持ちでもう一度顔を上げ、ずれそうになった眼鏡を指で直す。アイも新一と同じように困惑した表情をしながら、大人しく座って新一と快斗を見比べている。凍りついた空気を壊すようにヒトミが明るく声をあげた。
「お二人とも、こちらはアイちゃん。快斗君も会うの初めてだよね? 先月くらいにお店に入った子なの」
「…よろしくお願いします」
黒いロングドレスからはみ出た白い肩の上でアイの髪の毛の先が揺れる。アイは静かにテーブルに置いてあるウイスキーのボトルに手を伸ばした。丸い文字で「快斗君」とハート付きで書かれたタグが掛けられているボトルを持ったアイは、
「快斗さん、ロックでいいですか?」
と呼びかけ、黒羽はうなずいた。
「工藤も同じのでいいよな?」
「あ、ああ…」
華奢な手でボトルを持った彼女は氷の入ったグラスにウイスキーを注いでいく。記憶の中にある白衣を着ていた彼女とはあまりの違いに新一が言葉を失くしていると、
「工藤さんっていうんですかー?」
ヒトミは快斗の向こう側から顔を覗かせ、新一はぎくりとした。黒羽が不用意に新一を呼んだ事に舌打ちをするが、もう遅い。そもそもはなから黒羽には新一を隠すつもりなどないのだ。
「下のお名前も聞いていいですかー?」
ほらみろ、と新一は心の中で毒づく。アイからグラスを受け取っている黒羽は飄々とその場を楽しんでいる。新一が口をつぐんでいると、黒羽が肘で脇腹を突いてきた。
「答えてやりなよ、新一クン」
「え、工藤…新一?」
ヒトミが声を潜めるようにまじまじと新一を見つめてくる。だけどそれ以上は詮索せずに、にこりと微笑み、
「さすが、快斗君のお友達には聡明な方がいらっしゃるんですね」
プロ根性を見せた彼女に、新一は内心ほっとした。隣でくすりと笑い声が聞こえ、目を向けるとアイがグラスを新一に差し出していた。
「どうぞ、工藤さん?」
新一は黙ったままグラスを受け取る。一瞬手が触れ、どきりとしてしまった。ずいぶん長い時間が経ったように思う。最後に彼女に会ったのはいつだっただろう。哀という偽名から、偽りの姿から解放された彼女は、どこかの会社に研究職として就職したのではなかっただろうか。
ヒトミと黒羽が会話しているのを片耳で聞きながらアイについて考えていると、ボーイが席にやって来てヒトミにそっと耳打ちをした。ヒトミはうなずき、黒羽の手を握る。
「ごめんね、快斗君。次の席に呼ばれちゃったみたい。ゆっくりして行ってね」
「会えて嬉しかったよ、ヒトミちゃん」
今では姿を消した白い某怪盗を彷彿させるような気障ったらしい言葉に、ヒトミはまんざらでもなさそうに笑い、
「新一さんも楽しんで下さいね!」
再びスカートをつまんでお姫様のようにしゃがんで挨拶をし、手を振って席から離れて行った。
三人だけになった席に沈黙が走る。
「ヒトミちゃんはこのお店のナンバーワンなんだ」
「へぇ…」
ウイスキーを喉に流し込みながら、黒羽からのどうでもいい情報を脳内で処理する。からりと氷がひび割れる音が響いた。
「アイちゃん、だっけ? よかったら君も何か飲みなよ」
「ありがとうございます」
アイは微笑んで、黒羽のボトルに手を伸ばす。
「ところで、君はどうしてここにいるの。宮野志保ちゃん?」
ボトルに伸ばした手を止めて、アイは黒羽を睨んだ。
「そういう貴方達も、こんなところに何の用? 名探偵の工藤新一君と、そしてハートフルな怪盗さん?」
アイの言葉に、今度は新一も黒羽の目を丸くした。彼女が黒羽の正体を知っている事が意外だった。
「なかなかの情報通だね、志保ちゃん。この探偵君に何か吹き込まれた?」
「おい、俺がそんな情報漏洩するわけねーだろ!」
「その通りだわ」
トクトクとグラスにウイスキーを注ぎ、ハンカチを添えた手でグラスを持ったアイは、二人にグラスを差し出した。
「この巡り合わせに乾杯しましょう」
かつんと鈍い音が広がり、新一も再びウイスキーを飲む。どろりとした苦みが胃に入って行く。新一と同じタイミングでテーブルにグラスを置いたアイは、ふと息をつき、
「私の名前はアイよ。二度とその名前を呼ばないで」
完璧すぎるほどの妖艶な笑みで、新一と黒羽を見つめたのだった。