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1.終わらない夜



 六月の夜の始まりは遅い。
 ようやく空が暗くなりかけた時間になっても、新宿の一角の人口密度は高く、蒸し暑さは昼間と変わらないままだ。高層ビルから覗く空は遠く、視線を落とした新一はそのまま腕時計を見た。午後7時54分。

「工藤!」

 時間を確かめたのと同時に前方から声がかかり、新一は顔をあげる。癖っ毛を揺らしながら走って来る男は、年甲斐もなく笑顔で手を大きく振ってきた。

「ごめん、遅れた! 待った?」
「………」
「工藤?」

 天然なのか計算なのか、この男の言動全てが新一に頭痛を与える。開口一番のそのセリフは昔のラブコメ作品を思わせ、新一が眉間にしわを寄せると、男が不思議そうに首をかしげた。

「おまえを頼る俺が馬鹿みたいだ…」

 嘆息しながらひとりごち、新一は男と一緒に目的地へと歩き出す。
 久しぶりに会う男は、そこそこ名の売れたマジシャンで、だから簡単な変装をして来るのかと思っていた。しかしその予想を裏切り、彼はジーンズにブランド物のカジュアルシャツを合わせたラフな格好で、更にそれが彼のオーラを引き立てている。これでは潜入捜査にならない。
 そういう新一は黒縁の眼鏡に、やはりマスコミの前では出ないようなカジュアルな格好をしている。世に知られた探偵工藤新一だと気付かれないような変装は、この男によって台無しだ。

「…黒羽。俺達は遊びに行くわけじゃねーんだ。なんだその普通すぎる格好は」
「え? 変装は必要? ただのマジシャンがオトモダチを連れてクラブ遊び、逆に自然じゃない?」
「おまえのイメージを壊してどうすんだよ」
「この黒羽快斗様がクラブ遊びごときでイメージ崩れるかよ。そのオトモダチの工藤新一を連れて行ったっていうほうが自然じゃない? そんなバレるかバレないか分からない変装しているより、堂々と遊んでいる振りしたほうが怪しくないって」

 黒羽は新一の眼鏡を指さして笑う。
 今回の捜査場所は高級クラブだ。所謂「いちげんさんお断り」という会員制クラブで、クラブ遊びに無縁の新一が単独で入り込むには難易度が高く、仕方なくツテを探したのがこの黒羽快斗だった。
 黒羽の言葉に、なるほど、と新一は納得をし、しかし眼鏡はそのままに捜査場所である高級クラブが入るビルへと辿りついた。



 ビル内にある綺麗とは思い難いエレベーターに乗り、ドアが開くと古びたビルとは似つかわしくないカーペットの廊下が広がっていた。捜査の為に磨いた革靴で歩く。新一の前を歩いていた黒羽が慣れた手つきで分厚いドアに手をかけ、そこに立っているボーイといくつか言葉を交わしている。

「いらっしゃいませ」

 ボーイは非の打ちどころのない挨拶で黒羽と新一を出迎えた。煙草とお香の匂いで混じった空間に新一は表情を苦くする。クラブやキャバクラは仕事柄何度か訪れた事があるが、新一にとっては好き好んで足を踏み入れる場所ではない。

「快斗君! 久しぶりー!」

 ボーイに誘導されてボックス席のソファーについていると、入口のボーイとは釣り合わない舌っ足らずなホステスが、長いスカートの裾を持ちながら高いヒールで器用で走ってきた。

「全然来てくれないから、ヒトミもう忘れられたのかと思ってたよ」
「ごめんね。忙しくてさ。それより、いの一番にヒトミちゃんに会えるなんて嬉しいな。当然同伴出勤だと思ってた」
「今日はたまたま同伴なかったの。快斗君に会う為だったのかもねー」

 分厚い化粧と派手なドレスで大人っぽく見えるその女は、目を細めて笑うと途端に幼く見える。二十歳そこそこ…、もしかしたらまだ十代かもしれない。仕事の癖で彼女をじっと見つめていると、ヒトミと呼ばれていた女は新一に気付き、ふと微笑んだ。

「いらっしゃいませ。初めまして、ヒトミです」

 さすが高級クラブだ。初対面の客に対する態度は徹底されている。ヒトミはスカートを持った手で会釈をし、そのまま快斗の隣に座り、名刺を取り出して新一に渡した。その指元の爪も綺麗に施されていて、彼女の全身が職業に対する意識を物語っていた。

「初めまして」
「快斗君のお友達?」
「そう! 腐れ縁なんだ」

 快斗は無邪気に笑う。そこへ、もう一人のホステスがボックス席の前に立った。通常こういうクラブでは、男性一人に対してホステスが一人つく。その気配に気付きながら、他に別の方法があったかもしれないと新一がこっそりため息をついた時、ヒトミもそのホステスに気付いたようだった。

「あ、アイちゃん。いらっしゃーい」

 アイ、という名詞に、新一はふと十年も前のことを思い出した。
 彼女は偽名だった。でもクラスメイトの一人に哀ちゃんと呼ばれていた。アイという響きを持った名前は特別珍しくもないというのに、なぜか彼女の幼い顔が思い浮かび、それを振り消すように顔を上げた新一は目を見開いた。

「初めまして。アイです」

 記憶と変わらない癖のかかった茶髪を揺らした彼女は、先ほどのヒトミと同じようにかがんで挨拶をした後、新一の隣に座った。