翌日の夕方、退院した博士の家に少年探偵団が見舞いにやって来た。
「博士ー、体調は大丈夫かよ?」
「救急車で運ばれたって聞きました」
今でも博士の作るゲームを楽しみにしている元太と光彦も、まだ風邪の症状が残ってマスクをしている博士を気遣ってか、ゲームの新作は催促することなく、それどころかいつまででも待っていると言うものだから、二人の優しさに哀はほっとし、彼らの成長に目を見張った。
「博士、お花を買ってきたから飾るね」
そういう歩美もやはり三年前には見せなかった憂いのある笑顔で、リビングに置かれたチェストの上を整理している。
救急車で運ばれてから一日の入院を終えた今日、博士の退院に伴って哀も学校を休んだ。病室の匂いが鼻腔から消えない。看護師に連れられてベッドから降りた博士は、出会った頃よりもずいぶん小さくなってように思った。それは哀が成長したからかもしれないが、確実に歳月が経っている事に、抗えない時間の流れに、哀は恐怖心を抱いた。これまで非論理的な思考を好まなかったが、人が不老不死を願うのは、むしろ自分の事ではなくて大切な家族の事なのかもしれない。
少年探偵団が、ソファに座ったままの博士を気遣いながら、学校での出来事を話す。博士は顔をくしゃりとさせながら、黙ってうなずいて聞いている。そういえば三人が揃ってこの家に来るのは久しぶりだと哀は思う。
チェストの上には、歩美が買って来たフラワーアレンジメントが飾られ、一気に華やかになった。
「そういえば、歩美、アルバムを持って来たの。最近部屋を整理したら写真がたくさん出てきて、懐かしかったんだ」
歩美はそう言って、ソファに座ったまま鞄からピンク色のフォトアルバムを取り出した。見開き六枚ほど入る、簡潔なファイルだったが、そこに映っていた写真はどれも身に覚えのあるもので、哀も思わず身を乗り出してしまった。
「お、これ一年の時のキャンプの写真じゃねーか!」
「懐かしいですねー」
元太と光彦も歓声をあげる。
写真の中には、眼鏡の彼が存在していた。
「コナン君、元気かなぁ…」
アルバムをめくる手を止めた歩美がぽつりとつぶやき、哀は息を張りつめるようにただ黙って写真に視線を落とした。
「あいつ全然手紙とかくれねーよなー」
「もともと薄情だったじゃないですか。きっと元気に過ごしていますよ」
口を尖らす元太に、光彦が苦笑する。
三人が言及し、哀は焦りを覚えて口を開く。ここで何かを言わなければ不自然に思われてしまう気がした。
「…そうね。円谷君の言う通り、相変わらず無邪気に無鉄砲に過ごしているんでしょうね」
無理やり言葉を紡いでみたものの、自分の声はひどく乾いていて、それはそれで不審に思われそうな気がして、哀はアルバムから視線を上げる事ができない。
昨日の新一を思い出す。博士が倒れた事で気が動転した哀に対して、ひどく優しく接してくれた。それは彼に記憶がないからだろうか。哀をただの子供だと思っての優しさだったかもしれない。だけど、どちらにしても工藤新一という人間は、そんな優しさを持っていた。そんな彼が、結ばれるべくして一緒に過ごしていた彼女と別れた事は、今でも哀は解せないままだ。
ページはめくられ、季節が移り変わり、やがて写真の中からコナンの姿が消えた。それでも残りのメンバーでの思い出も多々あり、三人と博士は思い出話に花を咲かせる。その光景を見つめながら、哀は何かを誤魔化してしまったような煮え切れない感情を胸に落とした。嘘を抱え込むという事は、想像以上に罪深い。
やがてチャイムが鳴り、博士の代わりにおもむろに哀が立ち上がった。
「誰かしら…」
時計は夕方五時を示している。そろそろ元太達も解散したほうがいい時間だ。
哀が玄関のドアを開けると、スーツ姿の新一が立っていた。
「あ、灰原。博士の具合はどうだ?」
まだ大学三年生の新一のきちんとしたスーツ姿は珍しいわけではない。急であればともかく、警察から呼び出しを受けた際にはできる限りスーツを着て行動するのが新一のこだわりだ。
「工藤君、また事件に呼ばれていたの?」
学生の本分を忘れていそうな新一に哀が呆れ顔で訊ねると、新一は首を横に振った。
「いや、それについては後で話すよ」
そう言いながら、新一は玄関に置かれた靴に目をやり、
「光彦達も見舞いに来てるんだな」
哀の許可もとらずに慣れた足取りで阿笠邸に上がり込んだ。哀はため息をついて玄関のドアを閉める。少年探偵団の靴の横に置かれた革靴は、他に比べて大きい。大人の男の靴だった。
自分の中に生まれた感情をどうにか隠さなければと哀は深呼吸をし、無表情を決め込んでリビングに向かう。
「あ、新一さん!」
新一の登場に一番歓声をあげたのはやはり光彦で、新一は光彦の隣に座って光彦と元太の話を聞いていた。その光景は仲間同士の会話ではない。一種の情愛がそこにはあっても、昔とは違う。
テーブルに置かれていたアルバムの話はいったん終わったようだ。開かれているページにコナンが写っていない事にほっとしながら、コーヒーを淹れようと哀がキッチンに向かった時、
「哀ちゃん、歩美も手伝うね」
そう言った歩美もキッチンへ入って来て、いつの間に慣れたのか来客用のカップを棚から取り出している。長く伸びた細い腕を見て、そう言えば哀もいつの間にか踏み台を使わなくても大抵の食器を取り出す事が出来るようになった事に気付く。
「ありがとう…」
コーヒー豆をパックに入れながら哀が言うと、歩美はにこりと笑い、
「ねぇ、哀ちゃん。新一お兄さんってさ、コナン君に似ていると思わない?」
どこか大人びた声色で、そう言った。