3.Inside


 どうして、と哀はつぶやいた。流れる涙もそのままに、ひたすらつぶやく。
 そんな哀に、ソファの隣に座った新一は困ったように微笑み、哀の頭を撫でた。

「こういう事に、理由なんてねーよ」

 言葉こそぶっきらぼうだが、その声には優しさが伴っている。それは哀が子供の姿をしているからだろうか。きっと新一は心の内を哀に見せない。三年前とは違う。哀は彼の相棒でもなんでもない。共有しているものなど何もないのだ。
 今更正体を明かしたいなどと思わない。彼にはそんな事実さえ隠していたい。そう思うからこその矛盾で、今だけでも彼の心に近付きたいと思った。
 一度封印したはずなのに、彼は哀の知る彼ではないのに、再び哀は落とされてしまったのだ。
 だって、哀の頭に触れる指が優しい。

「理由がないなんて嘘だわ」

 鼻をすすりながら、哀は涙声でつぶやき、新一の指が止まった。

「いつだって真実を追い求めるあなたが、そんなあやふやに彼女を手離すわけがない」

 哀の言葉に、新一は哀から手を話し、少しだけ考え込むように哀を見つめた。

「俺が事件ばっかりにかまけているから、愛想を尽かさちまったんだよ」

 新一の落ち着いた声に、哀は両手で顔を覆う。涙腺が壊れてしまったかのように涙が止まらない。
 表面上無邪気に笑う新一の一枚皮膚の下に眠る葛藤を、哀は知っていた。



 大学に入学してからの新一は相変わらず事件に奔走していた。
 哀の知る限り、大阪に住む服部とはそれなりに交流しているようだったし、同じ大学に通う友人もできた中で、合間を縫って蘭とも頻繁に会っているようだった。
 時々蘭と二人で歩く姿を見かけた。哀には本当の幼馴染など存在しないので想像つかなかったが、二人の間に流れる空気は親しみや信頼が籠っていて、それは時間に長さに比例しているように思った。二人の目線が絡み合うのを遠目で見た時、足元が崩れて行くような喪失感に襲われながら、これが贖罪なのだと哀は理解していた。
 心臓を突き刺されたような胸の痛みは罪のしるしで、許された気になっていた。
 この感情に対して名前をつけるなんてナンセンスだ。それでも、自分の感情に名前がないと狂ってしまいそうだった。
 新一が記憶を失っている事について苦悩している事に、哀は気付いていた。最初こそ何も考えていないような無邪気に振る舞っていた彼の心の中にはひっそりと大きな闇が生まれていて、それはもしかしたら江戸川コナンの時より大きいのかもしれない。分かっていた。ちゃんと分かっていたのに、見ない振りをしていた。彼が幸せである事が免罪符となっていた。
 保身に走る感情は何だろう。自分自身が本当に子供になってしまったのではないかと哀は思う。自分は許されたかったのだろうか。彼が記憶のない事に苦しんでいるのを横目で見ながら、それでも現状を望んでしまう自分がいた。
 思い出して欲しい、でも許されたい。双方の気持ちが哀の心を揺さぶる。



「灰原」

 新一に呼ばれ、哀はゆっくりと深呼吸をしながら手を顔から離す。視線を上げると、新一が眉を潜めて哀の顔を覗きこみ、その距離感に哀は後ずさりをしたが、ソファの背もたれによって叶わない。

「俺、前にもこんな風におまえを泣かせた?」

 新一の指が哀の涙を辿り、哀はぼんやりと新一を見つめた。新一の言葉の意味を考える。泣かされた事は何度かあったと思う。どれも自分の孤独感から生まれたもので、皮肉を吐いては彼を困らせていた。

「どうして…?」
「ん…、なんとなくな。おまえの泣き顔を見た事ある気がするよ」

 泣き顔、という単語に哀は顔が熱くなるのを感じ、新一の指を振り払ってソファの上で膝を抱えるように座った。
 チェストの上に置いてある置時計の針の音が部屋の中で静かに響く。もう新一が言葉を発する事はなかった。でも立ち去る事もなく、ただ静かに哀の隣に座っていた。
 先ほど新一が眺めていた、チェストの上にある写真は増え続けている。何かのイベントごとに博士がカメラに収めて現像するのだ。そこにはこの静寂さとは無縁のような子供たちの笑顔があった。
 この中で生きて行こうと哀は決めたはずだった。そして新一を見守っていくはずだった。
 こんな風に、再び彼を好きになってしまうつもりなんてなかったのに。