哀の見た通り、博士は風邪によって血糖コントロールが一時的に不全になっていたようで、命に別状はないようだった。病院での点滴により、博士は数十分後に目を覚まし、ベッドに横になったまま哀に詫びた。
「すまんのう、哀君。薬についてちゃんと注意されておったのに…」
「何ともなかったからよかったわ」
哀は博士が横になっているベッドの傍に寄り、博士の手に触れた。出逢った時よりも皺が増えて、点滴のせいか冷たく感じる。
「新一君もすまんかったな」
「博士、あんまり無理するんじゃねーぞ」
哀の後ろで新一が優しく言う。
それから少しばかり話をし、博士は一日だけ入院する事になったので、哀は再び新一の車に乗って帰る事となった。
博士が目を覚ますまで、哀は何も話せなかったし、新一も何も言葉にしなかった。ただずっと手を繋いでいてくれた。哀の不安を読み取ってくれたのかもしれない。呆れるくらい鈍いけれど、人の感情に敏感な部分を持つ人だった。そういう所は昔と変わっていない。哀の知っている彼と同じだ。
車についているデジタル時計が午後7時を示していた。
「博士、無事でよかったな」
病院に向かっている時よりずいぶん軽やかな口調で、新一がつぶやいた。
「ええ」
「それにしても、灰原ってすごいのな。倒れていた博士の病状をあそこまで見抜くって、なかなかできねーぞ。医学書とか読んでた?」
新一の言葉に哀ははっとした。
記憶のない新一の前では、哀は極力普通の小学生を演じた。某江戸川のようなあざとい演技はしないものの、余計な事は言わないようにしていたのに、気が動転して自分はいったい何を話してしまったのか。
青ざめる哀をよそに、新一は言葉を続ける。
「俺も小学生の頃、書斎にあった医学書を読み込んで学校サボっちまって、母親に叱られたことあったよ」
俺ら同類かもな、と笑う辺り、新一が常人ではなかった事に哀は心底ほっとする。
「灰原も探偵に向いてるんじゃねー?」
「…私はあなたみたいに無鉄砲にはなれないし、人の荒探しばかりしてる探偵なんてごめんこうむるわ」
「はは、ひどい言い様だな」
いつの間にか外の雨は止んでいた。
哀の住む阿笠邸は工藤邸の隣だというのに、わざわざ新一は阿笠邸の前に車を停めてくれた。哀はゆっくりと車を降り、運転席の新一を覗きこむ。
「今日はありがとう。助かったわ」
哀が言うと、新一は一瞬目を丸くした後で、顔をくしゃりとさせて笑った。
再び哀の胸の中で芽生えた感情が熱くなる。不毛だと分かっているのに、未来がないと分かっているのに、思わず声に出してしまった。
「コーヒーでも飲んでいく?」
どうして人は自分の心を上手く操る事ができないのだろうか。
哀の声かけに嬉しそうにうなずいた新一は哀の言うまま阿笠邸に上がり込み、広いリビングに置かれた写真を一つ一つ見ていた。
「俺、最近光彦達に会ってないんだよな。あいつら元気なのか?」
三年前こそ他人行儀に接していた新一だったが、特に光彦が新一に懐いた事で新一も少年探偵団と親しくなっていた。その光景を見るたびに哀は複雑に思ったが、三人がとても楽しそうにしていたので、何も言わないでいる。
彼らは言葉に出さないだけで、今も江戸川コナンを忘れない。
「みんなとクラスが違うからなかなか会わないけれど、元気じゃないかしら。そういえば今日は吉田さんと一緒に帰って来たわ」
新一がこのリビングに上がるのは、もしかしたら元の姿を取り戻した時以来かもしれない。こういう事もあろうかと、コナンが映っている写真はすべてチェストから取り除いてある。
新一が記憶を取り戻せるかどうかは別として、不自然に刺激を与えたくなかったのだ。
哀は淹れたコーヒーをソファーの前にあるテーブルに置く。新一は写真が置かれたチェストから歩き、ソファーに座った。
「あの時以来だな」
「え?」
「灰原のコーヒーを飲むの」
哀は新一の言葉を黙って考える。あの時、を考える。彼の始発点。
あれから三年の月日が経ってしまった。新一は高校を卒業し、都内有数の名門大学に入学している。
時々、もう新一は記憶を取り戻しているのではないかと思う時がある。それでも彼の話す何かがちぐはぐで、その度に哀は落胆し、そして安堵するのだ。
「…今も内緒にしたままなの?」
「ん?」
「彼女に」
そして新一は記憶を失っている事を蘭に隠し続けている。とても新一らしいと思った。その優しさが人の傷をより刻む事を、彼はきっと知らない。
「ああ、蘭とは別れた」
コーヒーを飲みながら、新一は明日の天気を話すように淡々とつぶやく。
哀は耳を疑った。別れた? おとぎ話のように赤い糸で結ばれていたはずの二人が、どうして。哀は三年前を思い出す。新一が元の身体を取り戻した頃、あんなに幸せそうに寄り添っていたではないか。その姿を見るたび、哀は報われた気がした。新一の記憶を奪ってしまった解毒剤を作ってしまった事も、それ以前に彼の半年の人生を奪ってしまった事も、許された気がしていたのに。
何も分かっていなかった。許されるわけがなかった。
「灰原?」
マグカップをテーブルに置いた新一が、黙ったままの哀に詰め寄った。
新一の言葉も耳に入らない。哀の記憶には、いつだって笑顔の黒髪の彼女がいる。
「灰原!」
ぼやける視界の中で、新一の声に叩き起こされる。
「どうしておまえがそんな顔をするんだよ…」
哀の顔を覗きこむ新一の顔はどこか憂いを帯びながらも微笑を残し、哀は頬に一筋涙を流した。