3.Inside


 救急隊員によって博士が担架に乗せられて運ばれて行くのを、雨に濡れない阿笠邸の玄関先で哀はぼんやりと見つめていた。

「君はお孫さんかな?」

 隊員の一人が哀の不安を煽らないようにしゃがんで哀に優しく声をかける。哀はゆっくりと首を振り、

「ただの居候よ」

 そう答えると、隊員は不思議そうに眉を潜めた。失敗した、と哀は思った。嘘でもいいから親戚だと答えておけばよかった。事実はどうであれ、世間的に初老の男が小学生を居候させるのは非常識だ。
 家族と答えれば、大人の姿でなくても博士と一緒に救急車に乗り込む事ができるのだろうか。妙に冷静になった頭で考えていると、

「博士!?」

 雨の音の向こうから新一の声がして、哀は顔を向けた。
 新一に会ったのは久しぶりだった。

「どうしたんだ…。博士に何かあったのか?」

 一緒に暮らしている哀よりも焦った様子で、道端から走って来た新一は哀に問いだたす。哀はまっすぐに新一を見上げた。以前よりも少しだけ身長差が縮んだように思う。

「ちょっとした脱水症状よ。最近糖尿病の薬を飲み始めていて、更にそこに風邪をひいていたから、シックデイ症候群を起こしていたのよ。早めに対処したから、問題ないわ」

 言いながら、自分の声が思ったよりも震えていた事に哀は気付く。
 新一が怪訝に眉を潜めるのが分かった。哀は口を閉ざしてうつむく。
 博士を乗せた救急車が遠ざかって行った。どうして自分はあの場所に行けなかったのだろう。博士を見舞う事も出来ない事にもどかしさを覚えた。こんな時は子供の姿が辛い。

「灰原。博士はどこの病院に運ばれたんだ?」

 そう言う新一がポケットから車のキーを取り出したのが見え、哀は再び新一を見上げた。唇が震えて上手く答えられない。彼はいつの間にこんなに大人になったのだろう。

「灰原!」

 答えない哀をせかすように新一が声を上げ、哀はゆっくりと答えた。

「米花総合病院…」
「車を出すから一緒に行くぞ!」

 新一が強引に哀の手首を掴んだ。
 久しぶりの体温に、哀は唇を噛む。呼吸をするのも苦しくなる。
 キッチンで倒れていた時の博士を思い出す。博士の顔色は土のようで、生気を感じられなかった。額に浮かんだ汗、微かに震える唇。何度も博士の名前を呼びながら、哀は救急車を呼んだのだ。たった数分前の出来事だ。

「灰原…」

 声色が柔らかくなった新一の声に、哀は我に返る。新一の手が哀の頭に触れる。
 あの時もこうだった。新一が哀を灰原と呼んだ日。未だに記憶を失ったままの新一が、哀を灰原と呼ぶ時だけ、哀は彼の中に江戸川コナンを感じた。

「大丈夫だ、おまえはよくやった」

 そして今もまっすぐに哀の心の奥を覗き込むようなまっすぐな瞳に、哀はどきりとした。心臓が脈打つ。視線をどこに向けたらいいのか分からなくなる。
 この三年の間、ずっと新一を見守っていたつもりになっていたのに、知らなかった。
 哀をなだめるような、励ますような笑い方は、幼い少年の姿だったあの頃に似ているようで、少し違う。でも工藤新一に戻ったばかりの頃、彼はこんな憂いを帯びた表情をしただろうか。
 この三年の間に、彼を変えたものは何だろう。頭の隅に彼が愛する少女の姿が見え隠れて、こんな時に胸の中が燃えるように熱くなる。
 新一は黙り込んだままの哀の手を掴み、工藤邸の駐車場に停めてある車に乗るように促した。国産の今人気の黒色のセダン。
 助手席に座り、哀は窓の外を眺める。新一の運転は、想像と違ってとても丁寧で優しかった。
 どうしよう。哀は新一から顔を背けたまま、流れる景色を目で追う。
 窓の外は雨が降り続いている。まるでこの空間の中が蒸し暑くて冷たい場所から守ってくれているようだった。
 ハンドルを握っている手に触れられた部分に熱を持つ。人に触れられるのは苦手なのに、子供扱いをされるのは嫌いなのに、この大きな手の平に頭を撫でられる事で力が抜けるほどの安堵感を覚えてしまった。
 そうだ、哀は心細かったのだ。
 救急車を呼んでから、自分の持っている知識をフル動員して、博士の症状を確認した。脈をとり、呼吸を確かめ、顔色や汗の状態を手で触れ、キッチンに服用したと思われる糖尿病治療薬を発見した。一昨日頃から博士は食欲不振に陥っていた。低血糖症状と脱水症状。ブドウ糖を少しだけ含ませた水を博士の舌に含ませる。何度も何度も。
 そうやって冷静に対処している自分は大丈夫だと思っていたのに。

「灰原、もう着くぞ」

 運転しながら新一がつぶやく。目の前には無機質に病院の建物が見え、哀は深呼吸をした。
 博士は大丈夫なのだ。哀なら分かる。そうやって医学知識を持って分かってしまう自分自身を冷たく感じていたのに、こんなに震えてしまうほど心細かったなんて知らなかった。新一があの場にいなければ、今も途方に暮れていたかもしれなかった。
 駐車された車から降りようドアを開けると、

「ほら、行こう」

 先に車を降りた新一が助手席側まで来て、再び哀の手をとる。
 これまでこうして手を繋いだ事はあっただろうか。どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。新一のささやかな笑顔で救われてしまう。
 この感情の名前を哀は知っていた。