梅雨にはいつも空に大きな雲が覆いかぶさり、世界が何かから遮断されてしまったように思った。教室の窓から見える空を見ながら、授業中に哀はそんな事を考える。
先月の席替えで獲得した窓際の席はとても環境がよくて、哀はこうして授業中に教師の目を盗んでは窓の外をぼんやりと眺める。国語の時間。クラスメイトにたどたどしく読まれる文章は心地のよいBGMとなり、雨音はさらに色を持つ。
雲の向こう側は何も見えない。
「では灰原さん、続きを読んで」
担任の女教師が哀を名指し、哀はゆっくりと立ち上がった。椅子と床の摩擦音が心地悪く響く。
哀は小学五年生になっていた。
放課後、掃除の時間が終わって哀は荷物をまとめてランドセルを背負う。このランドセルも少し窮屈に感じ始めている。ある薬の影響を受けることなく、哀は灰原哀として順調に肉体的にも成長をしているのだと哀は客観的に自分を見つめる。
「あれ、哀ちゃん?」
廊下を歩いていると、隣のクラスの歩美にすれ違う。三年前はあどけなくて泣き虫だった彼女も、今ではふとした瞬間に大人びた顔をするのだから、時間の流れに驚愕する事もある。
「今から帰るの?」
「ええ」
「じゃあ一緒に帰ろ! 歩美もランドセル取って来るから待ってて!」
哀は駆けて行った歩美の後姿を眺める。肩までの長さだった黒髪は背中あたりまで伸びていて、とても綺麗だと思う。
再びランドセルを背負った歩美が走ってやって来て、哀は歩美の横を歩いた。彼女と二人で話すのは久しぶりだ。
下駄箱で靴を履き替えて、傘を広げて雨の中を歩く。
「昨日テレビでね…」
雨の中に花を咲かせるような声で歩美が話す。次々と話題が変わって行くのを微笑ましくも思う。
ドラマの話、最近気になっているアイドルの話、クラスメイトの話、ニュースで見た事件について。
その中には、不思議なほどに話題に上らない固有名詞が隠れている事を、哀はひっそりと読み取る。彼女の傷は癒えていない。歩美だけではなく、少年探偵団の他の二人もだ。
「そういえばね、今日元太君から聞いたんだけど、博士、風邪をひいてるの?」
元太君達博士のゲームの新作楽しみにしてたから博士の家に行ったんだって、とピンク色の傘をくるくる回しながら歩美は話す。こんな時は時間が経ってもまだ子供らしさを失わない彼らに、哀はほっとする。
「ええ。夏風邪かしらね。帰りにスーパーに寄って帰るわ。体を冷やさない物を作らなくちゃね」
「すごいね、哀ちゃん」
そして彼女の目に宿る光は昔と変わらない。自分は歩美が思うほどできた人間ではない、と哀は思う。それを上手く言葉にできなくて、もどかしさを感じる。
いつまでこうやって話をすることができるのだろう。
三年前から哀は取り残されている。十八歳の心のまま。そこで一度世界が沈んで生まれ変わったように、塗り替えられた世界の中で、哀は生きている。
だってこの世界に、彼はいない。
途中で歩美と別れ、哀はスーパーに寄って根菜を買って帰った。最近糖尿病の気が見え始めた博士に対して食事を厳しくしていたが、たまには甘えさせてあげてもいいかもしれない。
博士と一緒に暮らしてもう三年半になるのだ。血の繋がりもない自分を引き取ってくれた上、今も娘のように可愛がってくれる。普通の家庭の温かさを知らない哀にとって、そこはぬるま湯のように心地よくて、外の世界がどんなに崩れても博士の家に帰る事はやめられなかった。
傘を持っていない方の左手でビニル袋を持ち、慣れた手つきで阿笠邸の門を開けて玄関を開ける。
「ただいま」
昨日から微熱気味だった博士はまだ自室で寝ているだろうか。少しは症状もよくなっているだろうか。
そう考えながら玄関で傘を畳み、足を踏み入れて行くと、キッチンに転がっている物体を発見した。
「…博士?」
――違う、モノじゃない。
キッチンの流し台のすぐ下で倒れていたのは、博士だった。
「博士!!」
これまでに出した事のないような声で叫んだ哀は、脱げたスリッパもそのままに倒れている博士に駆け寄った。