2.Into The Water


 雲ひとつない青空から太陽が惜しげなく街を照らし、ただでさえ暑い空気にアスファルトからの放熱がさらに気温を上昇させる。夏休み真っただ中の一日、新一は警察から呼び出され、事件現場に出向いていた。
 事件を解決した時の快感は、初めての時から変わらず、一つの中毒性を帯びていた。もちろん自分が解決したんだという顕示欲も生まれていた。しかし、目暮警部が「最近の君は謙虚だから」と言っていて、そして記憶のない半年の間に新聞から工藤新一の名前は消えていて、自分の知らない間に目暮の言う通り本当に自分は謙虚になってしまったのかもしれない、と新一は疑問に思う。
 そう簡単に性格が変わる事があるだろうか。変わってしまったとしたら自分に一体何が起こったというのだろう。意図的に消されていた携帯電話のデータやパソコンの履歴を思い出し、まるで世間から隠れていたようだと思った。でも、一体何の為に?

「すまんな、工藤君。君が受験生である事を忘れとったよ」

 今日も変わらず帽子を被った目暮が豪快に笑う。まぁ君なら心配いらんと思うがね、と一言付け加えられるが、そんな事は新一には保障できかねる。何せ、今度は全ての記憶を失わないとはなぜ言い切れるというのだ。
 腹の底に生まれた言葉をそのまま口に出す事もできず、新一は曖昧に笑って警察の面子と別れた。
 街の歩道を歩きながら、隣を走り抜けていく車を眺める。通りの向こう側には浴衣姿の中学生くらいの女の子達が数人で歩いていて、夏を感じた。ポケットの中で携帯電話が鳴り、手に取ると蘭からメールが届いていた。そういえば今日は花火大会の日だった。浴衣姿の子達を見かけるわけだ。
 腕時計が示す時刻は午後六時をとうに回っている。新一はため息をついて、電話をかけた。

『もしもし、新一? 一体どこにいるのよ?』

 開口一番文句口調である蘭を責められる立場ではなく、新一はごめん、と笑った。

「目暮警部に呼び出されていたんだ」
『また事件? まぁいいけど。時計台のところで待ってるね』
「ありがとな」

 デートに遅刻しても蘭はいつも優しい。新一の事件への好奇心を理解してくれる。蘭を大切にしなければならないと新一は携帯電話をぎゅっと握りしめる。
 蘭の声の後ろ側には騒がしく賑わっていそうだった。屋台もたくさん並んでいるのかもしれない。幼い頃に行った花火大会を想い浮かべながら、蘭ととりとめのない会話を続けていると、

『あ、花火始まったみたい…』

 蘭の声を聞き取った瞬間、電話を通して何かを打ち抜くような音が響き、新一は足を止めた。

『わぁ、すごく綺麗だよ! 新一、早くおいでよ』

 受話器から響く蘭の明るい声とは裏腹に、新一の心臓は脈打っていた。

 ――灰原!

 彼女は無事だろうか。撃たれていないだろうか。
 背筋を冷たい汗が流れる。

『新一…?』

 黙り込んだ新一に対して蘭が訝しげにつぶやくが、新一は、ごめん、と震える手で携帯電話を切った。
 銃声? いや、そんなわけがない。蘭の声は歓喜に満ちていて、米花公園では予定通り花火が打ち上げられたのだ。どうしてこんなに動悸を感じるのだろう。
 どうして、眼鏡をかけた灰原哀が脳裏に浮かんだのだろう。
 新一はタクシーを止め、運転手に怒鳴るように叫んだ。

「米花町まで!!」



 工藤邸の前でタクシーを停めてもらい、新一は運転手に一万円札を乱暴に押し付けてタクシーを飛び降りた。そのまま阿笠邸まで走り、チャイムを鳴らす。
 ドォン、と遠くで音が鳴る。どこからどう聞いても花火の音だ。
 玄関のドアがそっと開き、灰原哀が顔を覗かせた。

「…工藤君? どうしたの?」

 久しぶりに見る小さな少女に、どうしようもない気持ちが芽生えた。無事でよかったと心の底から思う。
 新一は唾をごくりと飲み込み、彼女に近付いた。彼女の柔らかい髪の毛に触れる。きっともっと昔に自分は彼女に出逢っていたのだ。幼馴染を想うような感情ではなかったかもしれない。それでも、きっと彼女を大切だと思っていたに違いないと、どこにも証拠などないのに新一は確信し、怪訝な表情を浮かべる哀に苦笑しながら新一はその小さな頭を撫でる。

「灰原」

 新一がつぶやくと、哀ははっと新一を見上げた。驚愕と怯えを混ぜたような視線に小さく傷つく。彼女を怖がらせているものは一体何だろう。それらを全て排除したかった。

「俺、おまえの事を灰原って呼んでいたんだな」

 新一が言うと、哀は新一の手を跳ねのけ、うつむいた。
 新一が目を覚ましてからずっと同じだ。彼女は後ろめたい何かがあると、感情を殺すようにうつむくのだ。新一の記憶喪失について説明する阿笠博士の隣に座っていた時もそうだった。
 本当に彼女は撃たれそうになっていたのかもしれない。もしくは、本当に撃たれたのかもしれない。でも今はまだ聞けない。自分は探偵だから、真実は自分で掴んでいくしかないのだ。

 守れなくてごめん。

 心の奥底の何かが小さく叫んだ気がした。