翌朝、目覚めた瞬間に灰原哀の面影を探し、夢だった事を知って落胆した。
今朝もきっと蘭が迎えに来る事は分かっていたけれど、早く外の空気を吸いたくて、いつもよりも早めに家の外に出た。すると、ちょうど隣の家の門が開くのが見え、新一は立ち止まる。
夢の中で見た茶髪。今は泣いていない。
「あ、灰原…さん?」
無意識のうちに声をかけてしまい、そしてそれに気付いた彼女が静かに新一に振り向いたのが見え、新一は慌てて話題を探す。あの少年探偵団が見舞いに来たのが昨日だ。体調は大丈夫なのかと訊ね、当たり障りのない会話をする。
そうしているうちに蘭が駆け寄って来た。やはり蘭も灰原哀と知り合いらしく、挨拶を交わしていた。
いくら子供好きの蘭でもこんなクールな子供の相手もできることに感心していると、蘭が言った。
「哀ちゃんはコナン君とすごく仲良かったんだから!」
そして再び存在を醸し出す、新一の知らない少年の名前。哀を覗き見ると、びくりと肩を震わせたように見えたが気のせいだっただろうか。
――哀ちゃんはコナン君の事が好きだったんだと思う。
歩美の言葉が脳裏によぎる。
妙な胸騒ぎを感じた。こんなに小さな子供の恋なんてママゴトのようなものだと、身を持った経験でも分かっているのに、弱々しさすら見せない哀に対して手を差し伸べたくなった。――俺ならもっと上手くおまえを守るのに。突拍子もない感情に、新一は慌てた。昨夜に見た妙な夢のせいだろうか。
適当に挨拶を交わし、哀が背中を向けて小学校に向かったのを見届ける。
「新一…?」
不安を帯びた声にはっとし、新一は蘭に振り返る。自分の行動は不審だったかもしれない。きっと夢のせいだ。新一は曖昧に笑い、
「俺達も行こう。遅刻しちまう」
蘭の手をとって歩き出した。
何の変わり映えのない日々が色を持たないまま繰り返され、いつも間にか梅雨を終えていた。
受験生でもある新一のクラスは期末試験や模擬試験によって雰囲気は重々しくなり、外は晴れていても空気は濁って見えた。
「新一、帰ろう?」
あとは夏休みを残すだけの一学期の終わりにさしかかった日、いつものように蘭が鞄を持って新一の席の近くまでやって来る。付き合い始めた当初こそ、クラスメイトにからかわれたけれど、今では二人が日常に溶け込んでいて、もう誰も気にする者はいない。誰もが自分のことで精一杯だ。
新一も鞄を持って、いつものように蘭の隣を歩いた。先日の期末試験が返って来た事で話題が増えた。今回の試験前には二人で一緒に勉強したことで、蘭の数学の成績が上がったという。蘭に笑顔でありがとう、と言われ、新一は微笑んで空を見上げた。
教室の中よりもずっとすがすがしい空気に触れた空はどこまでも青い。この空の天井はどこにあるというのだろう。
呼吸が許される水平線があるのだとしたら、そこまで登りつめて行きたい気分だった。
「そういえばね、八月の最初の土曜日、米花公園で花火大会があるの。新一、一緒に行かない?」
蘭に訊ねられ、新一は頭の中でスケジュールを確認する。
「ああ、いいよ」
そう返事をすると蘭は嬉しそうに再び笑う。
未だに取り戻す気配を見せない記憶は闇に包まれていて、謎が厚くのしかかっていた。時々服部と電話をすることはあるものの、住んでいる場所が遠い事もあり、服部も新一の全てを知るわけではなさそうだ。何より、最重要事項を服部は言葉にしない。
そして気になる灰原哀には、時々登校する途中で見かけることはあっても、高校生と小学生では生活時間帯が違うのか、ほとんど会う事もなかった。
キーポイントはいくつも思い当たるのに、そしてこれまでの自分の性格ではそれらを全て結び付けて答えを導き出すはずなのに、どうすることもできないでいた。まるで自分が自分じゃないような感覚に、新一は途方に暮れる。
それでも蘭が隣で笑えば、少しは救われた。彼女のこの笑顔を曇らせないように、新一は今日も嘘をつくのだ。