2.Into The Water


 知らない名前の電話番号にかけると、三コールで相手が出た。

『おう工藤、久しぶりやな。どないしたんや』

 受話器の向こう側から聞こえてくる言葉は、新一の馴染みのないもので、新一はごくりと喉を鳴らしてから震える唇をようやく開いた。

「…久しぶり。ちょっと聞きたい事があって」
『お、工藤。おまえ無事に戻れたんやな。安心したわ』
「え…?」

 その言葉の意味を考える暇もなく、関西弁の男は次々と言葉を発してくる。

『何か事件でもあったんか? 悪いけど工藤、俺、今部活中やねん。また後でかけ直すわ』

 部活、という響きに新一はどきりとした。
 目の前に開いているパソコンのデスクトップ、服部平次という名前を検索したらすぐにヒットした。西の高校生探偵と呼ばれる有名人。そんな人間といつの間にか自分は知り合っていたらしい。
 分かった、と新一はつぶやき、携帯電話を机の上に置いた。
 高校生探偵か、と頬づえをつきながらマウスで画面をスクロールする。彼は数々の事件を解決しているらしい。しかも父親は大阪府警の本部長というのだから、新一よりもずっと警察に近い場所に身を置いているのだろう。
 服部の名前は灰原哀からも聞いていた。あの朝、混乱に溢れた新一が阿笠邸に助けを求めた時だ。



 一週間前の朝、新一は妙な関節痛や筋肉痛と共に目を覚ました。まるで酸素のない水の中に溺れていたような感覚に、浅い呼吸を繰り返しながら、痛む身体をどうにか起こす。
 見覚えのある自室のベッドの上。何も服を身につけていない事に疑問を覚えながら、焦りが生じた。新一には裸で寝る習慣などなかった。そして窓から差し込む光と、時計にかかった壁時計の示す時刻に違和感を抱く。今日は何月何日だったっけ…、と深刻に悩む自分に、更に焦燥感が募った。
 適当に服を羽織ってリビングに降り、テレビを付けてからようやく今が初夏である事を知る。部屋の中は妙に片付いていて、生活感のかけらもなかった。元々両親がアメリカにいることで一人暮らしをしていた新一だったが、こんなに整理整頓できているリビングを見たのは初めてだ。覚えのない状況に、新一は動揺した。
 昨日の出来事を何ひとつ思い出せない。それどころか、一昨日も、一週間前も、一ヵ月前の事も。
 新一は震える足取りでソファに腰かけ、一つ一つ整理して行く。自分のプロフィールを確認する。そして自分の両親、幼馴染の名前、隣に住む阿笠博士の事。
 衝動的に立ち上がり、玄関を出て鍵をかけるのも忘れたまま、阿笠邸の玄関のチャイムを鳴らす。今が早朝である事も頭から抜けて、すぐにドアが開かない事に、知らない世界に一人残されたような気がして、何度もチャイムのボタンを押すと、ようやくドアが開いた。
 しかし、中から出て来たのは新一の知らない茶髪の少女だった。



 パラレルワールドに投げ出されたみたいだ。
 新一は工藤邸の部屋を見渡す。数日暮らしていても不便のないくらい、部屋の中は変わっていない。そして新一が長期にかけて不在していたという割に、埃などは溜まっておらず、すみずみまで掃除が行き届いていた。
 そして繰り返される悪夢の始まりのような朝、いつものようにチャイムが鳴った。新一は高校指定の鞄を持ってドアを開ける。

「おはよう、新一」

 昨日と変わらず蘭はこうして新一を迎えに来てくれる。

「蘭、おはよ」

 そして昨日の出来事を避けるように、蘭は今日も明るく話題を振って来る。高校の行事、クラスメイトの話、江戸川コナンとの思い出。
 そうか、と新一は思う。ここ数日ずっと蘭がこんな調子だったのは、自分のせいだったのだ。
 それでも記憶を失っている事を彼女には言えなかった。何でも自分の事のように抱え込んでしまう彼女に、知られるわけにはいかない。
 登校する途中、視線の先にランドセルを背負った三人が見えて、新一は立ち止まった。確か昨日に会った少年探偵団と名乗る小学生達だ。

「あ、元太君達だ。おはよう、みんな!」

 隣で蘭が声をあげると、三人は振り返って小さな身体で大きく手を振って来た。
 その様子を新一は横目で眺める。彼らが江戸川コナンの友達だということは、蘭と親しくても不思議ではない。自分の全く知らない情景が、自分の周りには常識として横たわっている事実に、歯痒さを覚えた。
 彼らが心配していた哀の姿は今日もそこにはなかった。