2.Into The Water


 枷を外したように泣きじゃくる蘭をどうにか毛利探偵事務所の上階にある自宅まで送って行き、その階段を降りてから公道に出て、ようやく肩の荷が下りたように新一はため息をついた。
 夏の夜の訪れは遅い。午後六時、まだ空の色は変わらない。

「あ、やっぱり新一さんだ!」

 自分より背の低い場所から知らない少女の声が響き、新一が視線を落とすとそこにはランドセルを背負った三人の子供が立っていた。

「さっきまで蘭お姉さんと一緒だったよね?」
「でもよー、蘭ねーちゃん泣いてなかったか? こいつが泣かせたんじゃねーの?」
「ちょっと元太君!」

 楽器を奏でるピエロのように彼らは表情をコロコロ変えながら新一に話しかける。新一はたじろいで、それでもどうにか表面上を繕って彼らに笑顔を向けた。

「えっと…、俺に何か用? あ、それとも蘭の知り合い?」

 新一の問いに答えたのは、育ちのよさそうな少年だった。

「急に話しかけてすみません、工藤新一さん。僕達、コナン君の友達なんです」

 急に出てきたその固有名詞に、新一は眉を潜める。ここにもコナン君。

「コナン君の、友達?」
「はい。僕達、少年探偵団なんです。あなたのお話はコナン君からよく聞いていました。僕達はコナン君に憧れていたけれど、きっとコナン君はあなたに憧れていたんだと思います」

 会った事もない少年に憧れられるなんてさすが日本警察の救世主と呼ばれるだけあるな、と新一はぼんやりと心の中で自画自賛しながら、変わった名前の少年に興味が湧いた。

「少年探偵団? それは、そのコナン君がリーダーなのか?」
「リーダーはオレに決まってんだろ!」

 三人の中で一番大柄な少年が、胸を張って新一を見る。
 江戸川コナンの話は蘭から既に聞いていた。蘭から聞く話の内容から察するに、どうやら江戸川コナンは何らかの事情で蘭の家で生活をしていたようだ。そして蘭の口ぶりから、最近になって海外の住む両親の元へと帰って行ったらしい。
 コナンという名前の少年がこの近辺にそう何人もいるわけがないので、きっとこの少年探偵団の語るコナン君も同一人物であることは想像に容易く、新一は三人を見た。

「でもそんなに仲のいい友達が引っ越しちまって、寂しいな」

 共感を示すように新一がしゃがみ込んで少年少女に顔を向けると、三人は少し眉を潜めたあと、三人同士で顔を見合わせた。新一に触れられたくない暗黙の秘密を共有しているかのような気配に、新一は唾を飲み込む。

「そりゃ…、寂しいけれど…」

 しばしの沈黙の後に口を開いたのは、カチューシャを付けた黒髪の少女だった。

「きっと哀ちゃんの方が寂しいと思うから、私達は我慢するの」

 強い意思を伴う瞳を向けてつぶやく少女の視線に、今度は新一が押し黙った。
 哀ちゃん。聞き覚えのある名前だ。

「新一さん。今はもうあの家に戻っているんですよね? 隣に住んでいる灰原さんは元気にしていますか?」

 利発そうな少年に訊ねられ、新一はもう一度あの風変わりな少女を思い出していた。



 工藤邸に帰り、座り慣れたリビングのソファで携帯電話を眺める。
 あまり多用していなかったと思われるその携帯電話には、履歴やアドレスが少なく、その少数の中では蘭との通話やメールの多さが目立っていた。メールの内容を見返していたら、確かに自分は米花町にはいなかったのだという証拠にもなり、不思議な事に一ヵ月より以前のデータはすべて消されていた。
 奇妙な物語の世界に迷い込んでしまったような気分だ。

 ――哀ちゃんはコナン君の事が好きだったんだと思う。

 つい先ほどに出会った少年探偵団に属した少女の発した言葉が、頭から離れない。
 あんなにクールな少女が想いを寄せる江戸川コナンという人間は、一体どんな少年なんだろうか。
 蘭の語るコナンと、少年探偵団の語るコナン。両者にはちょっとした齟齬があった。まるで作りものの生きた人形みたいだ。
 携帯電話の捜査を続けて行くと、蘭の次に履歴の多い名前を見つける。――服部平次。知らない名前だった。