2.Into The Water


 毎朝、目を覚ます度に混乱する。
 言葉にならない混濁した意識の中から引き戻されるような感覚に、新一は吐き気を覚えた。カーテンの隙間から覗く太陽の光に安堵する。
 リズムを刻むように訪れる日々の中で機械的に動き、朝の準備を整えた頃に決まって蘭が工藤邸にやって来る。

「新一、おはよう」

 その笑顔を見ると新一はほっとする。形どらない曖昧な時間の中に自分の居場所を見つけられる。今日も世界はとても明るい。そして自分の意識がしっかりしていることに新一はほっと溜息をついた。



 高校に復学して一週間、以前より体力がなくなってしまったのか、どことなく身体が重い。記憶のない間の自分は一体どんな生活をしていたのかと叱咤したくなる。

「それでね、コナン君ったらその時すごく無邪気にはしゃいじゃって、普段大人っぽいからちょっと驚いちゃって…」

 帝丹高校からの帰り道、新一の隣で蘭がどことなく浮ついた声で話し続ける。
 コナン君、と新一は頭の中でつぶやく。聞いた名前だった。確か江戸川コナン、という名前ではなかったか。その名前を蘭の口から聞くたび、新一は阿笠邸に住む奇妙な少女を思い出していた。
 日本国内では珍しいその名前を初めて聞いたのがその少女からだったからかもしれない。ウェーブがかった茶髪に日本離れした顔立ち、そして年齢にそぐわない話し方。灰原と名乗った少女。新一の興味を引き付けるのは十分だった。

「ねえ、新一ってば聞いてるの?」

 蘭に半袖の裾を掴まれ、どきりとする。

「聞いてるよ」

 以前よりも少しだけ身長差を感じる蘭にまっすぐ見上げられ、新一はどことなく後ろめたい気持ちを抱えた。
 自分の記憶が一部曖昧なのは、阿笠博士に言われなくたって自覚している。最後の記憶はトロピカルランド。それからもう半年ほどの時間が経っている。博士に聞いた内容は、好奇心旺盛な自分にはありがちな出来事で、むしろよく高校退学に追い込まれなかったなぁと感心したほどだ。新一が不在がちになった後すぐに灰原哀は博士の家に引き取られたらしい。彼女は博士の遠い親戚だという。それにしてはまるで外国の血が混じっていそうなほど透き通るような白い肌を持った少女だったけれど。

「新一、帰って来てからちょっと変だよ?」

 蘭に指摘され、新一は思わずそのまっすぐな視線から逃げるように顔を背けた。
 新一が不在にした時も蘭はかいがいしく新一の帰りを待っていたと、博士から聞いた。単なる幼馴染がそこまでしてくれるというのだろうか。胸の奥で甘酸っぱい期待が生まれる。

「…どこが変なんだよ」
「だって、ロンドンの時の事なんてなかったようにするし…」
「ロンドン?」

 この日常には縁遠い地名が急に蘭の口から出てきて、新一は復唱した。敬愛するシャーロックホームズの生まれの地。でもそれがどうしたというのだ?

「信じられない! 好きだって言ってくれたのは新一じゃない!」

 大きな瞳を涙いっぱいにし、蘭は立ち止まって小さく叫んだ。
 幼い頃に出会ってからずっと、新一は蘭の笑顔が好きだった。蘭が笑えば世界が変わる気がした。このくだらない世の中が動き出すように思った。そんな彼女が泣きながらまっすぐに自分を見つめている。
 それより、何より。

「…ごめん」

 そうつぶやく以外の方法を見つけられる余地もなかった。
 どんな感情を持って彼女に想いを伝えたというのだろう。新一は自分が奥手であることを自覚している。我ながら情けなく思うが、告白だなんてそんな大それたことを成し遂げられるとは思えない。
 しかし蘭のその表情を見れば、それは真実なんだと思い知らされる。
 自分の知らない工藤新一は、ロンドンという神聖な場所で毛利蘭に愛を告げたのだ。

「ごめん…」

 失ったものは自分が思う以上に大きかったのかもしれない。蘭に近付いて、その長い黒髪に触れた。
 思い出さなければならないと思う。蘭の為に、そして自分の脳裏で見え隠れする茶髪の少女の為に。