久しぶりにランドセルを背負って、阿笠邸の重たい扉を開ける。ここに住み始めた頃は背伸びをしていたその動作が、今では頑張れば取っ手に手が届くようになった事に気付く。約半年かけて少しは背が伸びたのだろうか。
生ぬるい風が哀の頬を撫でる。いつの間にか横たわる夏の匂いに、ずいぶん長い間この空気に触れていなかった事を思い知らされる。
江戸川コナンが消えた時、一度哀の心は死んだのだ。
だけど哀は、灰原哀として生きる事を決めた。視線を上げれば透き通るように青い空は哀よりもずっと高い場所に広がっていて、光は惜しみなく世界を照らす。
「あ、灰原…さん?」
隣の家の方角から聞き覚えのある声がして、哀はぎょっとして振り返った。当の本人は哀の悩みなどいざ知らず、無邪気な笑顔で哀に語りかける。
新一が記憶を失ってから十日が経っていた。
「体調大丈夫か?」
「…どうして?」
博士に聞いたのだろうか。そう思っていると、新一はしゃがみ込んで哀の顔を覗きこみ、それに答えた。
「君の友達に聞いたんだ。すげーな、少年探偵団っていうのをやってるんだって?」
何も知らない新一の言葉に意識が揺れる。無知は時に武器となって、人の心を抉る。
三十人近くいるクラスメイトの中でも、五人でいる時間が一番心地よかった。誰が欠けてもいびつで、誰かが不在になっただけでも大事件だった。
昨日、哀に学校に来るように励ましてくれた幼い三人を思う。誰も言及することはないけれど、江戸川コナンが去った出来事はきっと三人の心に深い傷を残すほどの事件となるだろう。
どうして思い出してくれないの。矛先の違う理不尽な問いが、哀の震える唇から溢れそうになった。
私の事はどうでもいい。それでも、あの子達の事だけでもせめて思い出して。
一つの家族のように温かくて優しい空気を、哀は他に知らない。
「新一!」
軽快な明るい声により、沈んだ哀の意識が現実へと引き戻された。顔を上げると、新一が心配そうに哀の顔を覗きこんでいる。
「新一、おはよう。哀ちゃんもどうかしたの?」
夏服の胸元で黒髪が揺れる。哀は蘭の顔を見て、首を横に振った。
「哀ちゃん、久しぶりだね。元太君達とは時々出会うんだけど、哀ちゃんは最近会えなかったから心配していたんだよ」
蘭も新一の隣でしゃがみ込んだ。今の彼女には、哀が知っているような悲壮感は漂っていない。きっと新一と想いを通わす事が出来て、今が一番幸せな時なのかもしれない。
これでよかったのだと哀は思う。自分のしてきた事は無駄ではなかった。新一の失った記憶も、新一自身の人生にとっては些細な事だ。必ずしも記憶として必要ではない。非現実で論理的に語れない出来事は確かに彼の心をも傷つけた。
今新一が蘭の隣で笑っているのであれば、哀は報われる気がした。
「ていうか蘭、おめー灰原さんの事知ってんの?」
「何言ってるの? 当たり前でしょ? 哀ちゃんはコナン君とすごく仲良かったんだから! 新一こそ哀ちゃんと面識がなかったなんて驚いたわよ」
立ち上がった二人が、親密な空気を醸し出しながら哀の頭上で会話を続ける。コナン君、という単語に反応したのは、哀だけではなかったようだ。
「あー…、“コナン君”ねぇ」
「新一こそ、最近なんだか変よ?」
哀の届かない高さの場所で繰り広げられる会話のテンポに、哀は疎外感を覚え、ぎゅっとランドセルの肩紐を握った。黙ったまま踵を返すと、
「気をつけて行って来いよ、灰原さん」
哀の背中に投げるその声すら恨めしい。――何も覚えていないくせに。
振り返ることのないまま、哀はひたすら前へと歩いた。
江戸川コナンはもういない。最初からいなかったのだ。この世界はとても正常で、とても正しいリズムを刻みながら、地球は回転している。哀は仰ぐように空を見上げた。
家を出た時と変わらず空は青く染まっていて、思わず目を細める。長めの前髪越しに見える光は確かに存在するのに、哀には世界そのものが濁って見えた。
「哀ちゃん、おはよー!」
帝丹小学校の正門近くで、歩美に出会い、哀は視線を戻す。歩美の後ろには特撮モノの話で盛り上がっている元太と光彦が歩いてきた。
それでも彼らの中では、江戸川コナンは消えないのだ。きっと永遠に。
――それなら、私が守らなければ。
「おはよう」
哀の声に無邪気に駆け寄って来る三人を見ながら、哀は思う。
心の中で密かに育ってきた感情ごと、空の彼方へと投げ捨てよう。小さな宝物達を守りながら、記憶のない工藤新一を影から見守りながら、哀が江戸川コナンを忘れるという事。それが自分にとっての最善で最後の贖罪に思った。