阿笠博士が語った内容について、新一はどうにか納得をしようとしたみたいだった。
哀は博士と二人で工藤邸を出て阿笠邸に戻り、すぐさま地下室に駆け込んだ。パソコンを開く。あらゆる文献を手にとる。
新一の記憶喪失については病院にかかる事を止めたのは哀だ。原因なんてひとつしかない。病院にかかったところでどう説明すればいいというのだ。治療法を見つけ出せるのは哀だけだというのに。
「哀君…。あまり根つめんでも、新一は大丈夫じゃよ」
地下室をノックする博士からの気休めの言葉すら、哀を落ち込ませた。
「…ごめんなさい博士。少し放っておいて欲しいの」
震える身体を抑えるように、手にとった本ごと身体を抱いた。息も潜めるようにただじっとしていると、諦めたのか博士が階段を上って行く音が聞こえ、ほっと息を吐く。
まだ心臓がどくどくと波打っている。本のページを開いて、気になる箇所のページに折り目を入れていく。
間違っているはずないのに。
ページをめくる手の甲に生温かい滴がぽとりと落ちた。それは少しずつ数が増え、開いた本のページを濡らす。哀は濡れた手で涙を拭い、椅子に座ってぼんやりと上を向いた。無機質な天井が哀に落ちてくるような感覚に陥る。
明日は月曜日で、新一は高校に復学する。学年は変わってしまったからどのように処置が下されるか分からないが、今のところ退学扱いにはなっていない事はすでに確認済みだ。
呆けている時間なんてない。哀は椅子に座り直し、パソコンのマウスを手に取った。
組織を壊滅したのは約一ヵ月前だ。
あらゆる機関を総動員し、日本を代表するいくつもの企業との兼ね合いを持っていた謎に包まれた大きな組織の存在は、日本じゅうに衝撃を与えた。その時に手に入れた例の毒薬のデータを元に、研究を重ねた。元々哀の中には解毒剤の理論はできあがったので、そのデータはそれを確定づけていく作業で、三週間の時間を費やして念願の解毒剤が完成した。
それをすぐさま欲しがるコナンに対し、哀は江戸川コナンが自然な形でいなくなる方法を提案しながら時間を作るように促した。コナンは無邪気な顔で何も疑わずに哀に従い、クラスメイトや少年探偵団、毛利親子に別れを告げて行った。
一人の人間が消えるという事はとても不自然な事だ。でもそれ以上に哀の心は深く沈んだ。
彼が本当の姿に戻れば、哀だけがこの歪な世界に取り残されてしまう。分かっていても、解毒剤を作らないわけにはいかなかったのだ。
約束の日、解毒剤を渡す時、きっとコナンは満面の無邪気な笑顔を哀に向けるのだろう。そして、「ありがとな」と悪びれもなく告げるのだろう。お調子者で人使いの荒いところもあるけれど、肝心なところで優しさを忘れないのだ。だから余計に哀を苦しめる。
だから、あの日、哀はコナンに会えなかった。地下室で仮眠をとるふりをしながら、博士からコナンに解毒剤が渡されるのをひっそりと聞いていた。
何日学校を休んでしまっただろう。
地下室の中で光るパソコンからのブルーライトをぼんやりと見つめる。答えなんて初めからない事は分かっている。それでもどうする事もできない。
地下室に閉じこもっていては外の状況は分からないけれど、新一が何も訊ねてこないという事は、きっと状態は変わっていないのだろう。
玄関のほうで騒がしい声がした気がして、毛布にくるまっていた哀はゆっくりと身体を起こした。
「哀ちゃーん!」
聞き覚えのある無邪気な声に、哀は息を飲む。
ここ数日、新一と解毒剤の事ばかり考えていて、彼らの存在を忘れていた。それどころか、組織壊滅からずっと解毒剤の研究をしていた事もあり、学校も休みがちだったのだ。
「灰原、大丈夫かー?」
幼い彼らの声が少しずつ近付いてくる。彼らを家に入れた阿笠博士を恨みながらも、哀はゆっくりと立ち上がっていた。まともに食事も摂れなかったので頭がふらつく。
ドアをあけると、ちょうど階段を降りようとしている歩美と目が合った。
「…吉田さん」
「哀ちゃん、まだ元気ない? でも大丈夫だよ、歩美達がいるよ!」
確か学校には病欠と知らせているはずだ。医者でも何でもない彼らがいたところで役に立つとは思えないのに、何を言っているんだろうと哀が唖然としていると、
「灰原さん、僕達はコナン君の代わりにはなれませんが、また一緒に学校に行きましょう」
寂しそうな視線を寄越す光彦の顔を見て、哀はようやく理解した。哀の欠席を江戸川コナンが海外に行ってしまった事での傷心が原因だと彼らは思っている。
コナンを失って寂しいのはむしろ彼らのほうだ。哀は歩美を見る。何も知らない歩美が、コナンが去ってしまった事を悲しく思わないわけがない。でもそんな感情を隠して、彼女は哀を励まそうとしてくれる。
哀はゆっくりと階段を上って、三人の前に立った。
「ありがとう…」
哀だって元の姿に戻ることは可能だったはずだ。でも敢えてそれをしなかったのは、彼らの存在が大きい。
宮野志保に戻ったところで工藤新一が自分のものになるわけではなくて、そしてそれ以外に残されたものなんて何もない。でも灰原哀の姿でいれば、これからも平穏な生活を続けられる。とてつもなく優しい世界の中で生きていける。