新一が一部の記憶を失っている事は明らかだった。
ただし新一自身が哀を子供だと思って遠慮しているのか、それともそれすら自覚していないのか、哀には何も話さない。そもそも彼が灰原哀を認識できていない以上、外見上子供である哀が説明をしたところで、信じてもらえるとは考えにくい。
とりあえず新一には博士が帰って来るまで自宅で待機してもらうようにだけ説明した。幸い、今日は日曜日なので高校に行く必要もない。そもそも新一が高校を長期間に渡り欠席していた事を理解しているかすら怪しいのだ。
その日の夕方、哀から連絡を受けた博士が急ぎ足で帰るのと同時に、今度は博士と一緒に工藤邸に出向いた。
「博士、なんか痩せたか?」
チャイムを鳴らすとすぐに玄関から顔を出した新一が、博士の顔を見てあっけらかんと笑った。江戸川コナンが念願の工藤新一に戻る事を博士は誰よりも願っていて、それを彼も知っていたはずだ。そのはずの新一が博士に対する言葉もなく、ただ無邪気な笑顔を見せている。それはじんわりと哀の心を抉った。
「新一君、久しぶりじゃな。哀君がカロリーを計算して食事を出してくれるからのう。メタボ脱出が目標じゃよ」
新一の無邪気な様子に躊躇いを見せた博士は、すぐさま不信感を抱かせないように新一と同じように笑う。しかし新一は再び博士の隣にいる哀に視線を向けて、眉根を寄せた。
「博士、半年前からその子を預かってるんだって?」
「そうじゃよ。…新一君、中でゆっくり話そう」
博士に促されるようにソファに向かう新一の後姿を哀はじっと眺めた。長い足、大きな背中。自分の導き出した理論と計算式に間違いはなかったはずだ。一体彼の脳の中で何が起こってしまったというのだろう。
どうしよう…。帰って来た博士の顔を見てから安心したのか、脱力したように思考が働かない。どうすればいいんだろう。あらゆる医学的な知識の記憶を探り出す。
「哀君」
博士の声に、哀ははっと我に返った。
ソファに座っている新一に探るような眼で哀を見つめられている事に気付き、まるで犯人扱いされたかのように居心地が悪い。哀は無表情を保って博士の隣に腰をかけた。
「新一君、少しだけこの子から話は聞いとるんじゃが…。何か困っておるのか?」
「困っているっていうか…」
新一は言葉を濁しながら、部屋を見渡す。探偵である彼が証拠もなく、想定で物事を語るのは困難なのかもしれない。
「俺さ、しばらくの間眠ってたりした?」
「どうしてじゃ?」
「今朝、起きた時すごい違和感があってさ。テレビつけても季節感がよく分からねーし。よく考えたら、俺、最後の記憶が蘭とトロピカルランドに行った事なんだ」
――トロピカルランド。哀は声をあげそうになるのを堪え、息を飲み込んだ。
それは半年前の出来事だ。コナンからよく聞かされたものだ。幼馴染とデート中に黒ずくめの男達、つまりジンとウォッカに遭遇して、アポトキシンを飲まされた事。
ともすれば、今の新一の記憶からごっそりと江戸川コナンだった頃の記憶がないということなのだ。それは新一が一度工藤邸に戻ってから博士と二人で仮定を立てた事だった。新一は江戸川コナンの名前に反応しなかった。他人事のように、変わった名前だと笑ったのだ。
それから博士は、事前に哀と打ち合わせした事をそのまま話した。
工藤新一はこの半年の間、難事件に遭遇して高校を休学していた事。全国あちこち回っていて、米花町にはほとんど帰る事もなかったとの事。そして、その間に幼馴染の蘭に寂しい思いをさせていたからフォローしてあげて欲しいという事。
「蘭が寂しがってる? 何だよ、それは…」
頬を赤らめながら拗ねたように視線を逸らす彼を見て、これがきっと本当の工藤新一なのだと哀は思う。この半年の出来事はきっと夢だったのだ。
秘密を共有するように身を寄せて語りかけて来た、同じ背の高さの彼はこの世界にはもうどこにもいない。