けたたましくチャイムの音が鳴り、哀は飛び起きた。現在午前五時。江戸川コナンが薬を持って行ってから二十時間が経過している。
あの薬には催眠作用を促す成分も含まれていた。だから半日以上は眠ってしまうという事は阿笠博士を通じて彼に伝えたはずだ。
哀は時計を見ながら髪の毛を掻き上げ、布団から出てパジャマの上にカーディガンを羽織り、裸足のまま玄関に歩く。こんな早朝に非常識にチャイムを鳴らす人間なんて、遠慮知らずな隣人以外にあり得ない。何かあれば哀に知らせるようにも言っていたが、目覚めた直後に起こる副作用なんて何が考えられるだろうか。
ドアを開けると案の定、非常識な隣人が高校生の姿で立っていた。
「ちょっと工藤君…。目覚めたのはいいけれど、こんな朝早くから何があったっていうのよ?」
眠さを隠しきれないまま文句を放つと、目の前に立つ高校生探偵は哀を見下ろし、困惑の表情を見せた。
「おまえ、誰だ…?」
早朝だというのに阿笠邸の大きな窓から差し込む朝日は眩しい。もうとうに衣替えは終わり、夏至も過ぎてしまった。
「哀ちゃん…、だっけ?」
ソファーに座ったまま、きょろきょろと阿笠邸を見渡している新一に、哀は深くため息をついた。
「灰原でいいわ」
哀が静かに訂正を促すと、新一は複雑そうに哀を見た。哀はパジャマ姿のままキッチンで淹れたコーヒーを新一に渡す。こんな時に博士が不在だなんて、タイミングが悪い事この上ない。
以前にも本物の工藤新一に出会った事はある。あの幼馴染に正体がバレそうになり、それを誤魔化す為に江戸川コナンに変装した哀に対して、新一は目線を合わせるようにしゃがみ込んで、哀の頭を撫でた。その子供扱いが馬鹿にしているとしか思えなくてその時は突っぱねたが、今となっては冗談にもならない。
玄関先で哀を怪訝に見下ろした時の新一の表情が脳裏にこびりついている。
「灰原さん…は、博士の家に住んでいるのか?」
「ええ」
「いつから?」
「半年前よ」
事情聴取が始まったような居心地の悪さに、哀は自分のマグカップをテーブルに置いて、新一から離れた場所に座った。広い阿笠邸のリビングの空気が薄く感じ、哀は何度か酸素を吸い込むように胸に手をあてた。
「あなたはどうして、こんな朝早くからここへ来たの」
今度はこちらから尋問を仕掛ける。新一はカップをテーブルに置いて、数人分離れて座る哀に視線を向けた。
「それが、分からないんだ」
「分からないって…?」
哀も負けじと新一を見返すが、新一は何かを迷うように口ごもった。彼の考えている事なんてすぐに分かる。
「私が子供だから言いにくいの?」
哀の言葉に、新一はふっと力なく笑った。所在のないような笑い方をする彼を見たのは初めてで、哀は心の底が冷えていくのを感じた。
彼が灰原哀を認識していないということをようやく理解したのだ。
「さっきも言ったけど、博士は昨日の夜から出かけていていないのよ。私でよければ聞くし、私に分からない事は博士に聞いておくわ。それとも、あの西の高校生探偵でも呼ぶ?」
「…西の高校生探偵?」
「服部君よ。親友でしょ?」
「はっとり…?」
呼び慣れないような発音の仕方で、新一がつぶやく。哀は言葉を失った。彼が認識していないのは灰原哀という存在だけではない。どこからの記憶が曖昧なのか、確かめなければならない。少なくとも彼が博士を訪ねて来た以上、阿笠博士の事はきちんと認識していると断定できる。
「…ねぇ、あの毛利探偵事務所の彼女の事は、分かるわよね?」
「毛利探偵事務所って…、蘭の事か?」
服部平次の時とは違い、明らかに呼び慣れた響きに哀はほっと胸を撫で下ろしたのと同時に、胸の奥が痺れた。それを誤魔化すように哀は言葉を続ける。
「鈴木財閥のお嬢様の事は?」
「ああ、園子か。蘭の親友だ」
「じゃあ、江戸川コナンは?」
哀が続けると、新一は何かに反応したように哀の顔をじっと見つめた。
「コナン…?」
無垢な瞳を向けたまま訝しげに首をかしげたと思ったら、どこかおかしそうに笑い出す。
「変わった名前の奴もいるんだな。君の知り合い?」
笑いながらコーヒーを飲む新一を見て、哀は沸き上がる焦燥感を隠すようにゆっくりと息を吐く。この小さな身体ごとソファに沈み込んでしまいそうに思った。