緑が芽吹く季節から更に太陽の位置が高くなってきた五月。放課後の時間になり、昇降口で靴を履き替えてから正門を出ると、その場所には相応しくない男が立っていた。
「コンニチハ」
他にも同じ制服を着た生徒が歩いているはずなのに、その男の視線は間違いなく哀に寄せられ、哀は眉間に皺を寄せる。どう見ても会った事のないはずなのに、どこかでこの気配を感じた事がある気がした。
「灰原哀、ちゃん?」
無邪気に語りかけられ、哀は男の前に立った。男はにっと笑い、どこに隠し持っていたのか、一本の赤い薔薇を哀に差し出した。
「俺は黒羽快斗。君のコイビトの友達なんだ」
最近の工藤新一の様子がおかしいことに、哀は気付いていた。
凍えそうなほど冷たく澄んだ夜空の下で、一緒に過ごしたい、と告げられたあの日から四カ月が経っていた。付き合い始める前までは手を繋いだり頭を撫でたりしていたのに、いざ傍にいたら思ったほど近くにいない。抱擁もキスもほんの時々で、雰囲気が出来上がる前に離れてしまう。
彼が敢えてそうしている事を哀は知っていたし、中身がどうであれ中学生に手を出していいものかと苦悩している事にも気付いている。以前よりも格段に増えた二人で過ごす時間の中で、新一が読書に集中できなかろうとソファーの上で頭を抱えていようと、哀としてはさして問題はない。
「俺、最近工藤に会ってないんだけど、あいつ元気にしてんの?」
黒羽快斗と名乗った男は、行きつけだという喫茶店に哀を連れて来て、ミルクと砂糖がたっぷりと入ったもはやコーヒーとは呼べないそれをすすりながら、哀に訊ねた。哀は黒羽の前に腰かけたまま、その古びた喫茶店に溶け込むように馴染んだ黒羽を見つめた。
黒羽の名前は新一から聞いた事があった。大学時代の友人だ。知識豊富な新一は、誰とでも話せるくらいの人懐こさは持っていても、誰とでも親しくなれるわけがなく、どこか他人と一線をひいていた。その新一が珍しく話が合うと語っていた男だった。どんな人間だろうと哀は興味を持っていたが、実際に会ってから気付いた。
「あなた、怪盗キッドでしょう」
周りの客の声に紛れるくらいの小さな声で、しかしはっきりと哀がつぶやくと、黒羽は気配を明確に変えて、ご名答、とつぶやいた。
「でもそれは昔の話だけどね。知っての通り、キッドは死んだって噂されてる」
「工藤君は知ってるの?」
「たぶん」
「……あなたは工藤君の事を、知っているの?」
哀の問いかけに、黒羽は曖昧に笑い、ゆっくりとカップをテーブルに置き、哀を見上げた。
「ねぇ哀チャン。君の望みは何?」
その三日後、哀は新一と喧嘩にもならないような、些細な口論をした。
――俺がどれだけ我慢しているか、おまえには分からないよ。
――あなただって、私の望むものが何かを分かっていない。
問題なのは、新一自身だ。こんな状態で哀と付き合っている理由はあるのだろうか。
大学を卒業してからも工藤新一の人気は絶えず、今でも時々手紙やプレゼントが事務所や自宅に届いている。世間の目を気にする中学生の自分よりももっと相応しい大人の女が周りにはいるはずだった。
黒羽に指摘されるまで、自分の心の中にそんな身勝手な願いが潜んでいる事に気付かなかった。
新一はいつだって優しかった。これまで見た事もないような甘い視線で哀を見つめ、大きいな手の平のどこに隠れていたのかと思うほど繊細な指先で哀の髪の毛に触れた。宝物を扱うように。
本当に自分が中学生の心を持っていたらよかった。世間の事も知らずに、大人の男に憧れて、甘えられるくらい純粋な少女でいられたらよかった。自分自身を知り、哀は失望する。望みはまるで無法地帯の中に溶け込むように限度を知らない。
それからさらに三日が経った夕方、何もなかったかのように新一からメールが届いた。今日は早く帰れそうだから夕飯を作って、という内容だった。いつもであれば阿笠邸で夕食を作るのだが、今夜は博士が不在なので、学校帰りにスーパーに寄った後、哀は渡されている合鍵を使って工藤邸に入った。
荷物を置いて、今となってはこの家の主人よりも詳しくなったキッチンを使う。野菜を切って鍋に入れて火をかけようとした時、チャイムが鳴った。
少々きまずい思いをしながら玄関のドアを開けると、いつものスーツ姿の新一が立っていた。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
やはりいつもと変わらない様子で新一が家の中に入り、ジャケットを脱ぎ、それをソファーに置く。そろそろ衣替えの季節になる事が頭をよぎった時、新一が哀の頭に触れた。
「どうしたの?」
新一はいつだって優しい。
自分だけを見つけるその眼差しは、間違いなく自分のものだ。それでじゅうぶんじゃないか。哀の質問に対して答えない新一に、心の中を見透かされたような居心地の悪さを感じて、新一の手を取り払う。
リビングのソファーに座りもしないまま、立ちつくしたまま、自分達は一体何をしたいのだろうか。一定の距離感を保ったまま、まるで本物の恋人じゃないみたいだ。
今日の新一は、いつもの新一じゃないみたいだ。こんなにも心の距離が開いてしまったというのだろうか。
新一の様子に違和感を覚えた時、けたたましくチャイムが鳴り、乱暴にドアが開き、哀はびくりと肩を震わせた。
「黒羽ー!! てめー灰原に妙な事してねーだろうなー!」
もう一人の新一がずかずかと入って来たと思ったら、哀の隣に立っていた”工藤新一”に掴みかかっている。
「あはは! 工藤の大事なお姫サマに悪さするわけないじゃーん」
「馬鹿にしてんのかてめーは!」
偽物の工藤新一に詰め寄る本物の新一の裾を、哀は恐る恐る掴んだ。
「工藤君…、私は何もされてないわ。だから黒羽君を離してあげて」
「灰原…、おまえ黒羽を知ってんの? こいつは危険だぞ、なんたってあの怪盗キ……」
「はいはーい、話はそこまで。俺帰るね!」
元々顔立ちが似ているのだろう、新一の変装を解いていつもの癖っ毛に戻った黒羽が無邪気に新一の言葉を遮り、ソファーの上に置いていたジャケットを手に持った。きっと彼は黒いスーツよりも白いスーツのほうが似合うと哀は思った。何にでも変身できる、まっさらで純粋な色。
「哀チャン」
リビングを出る前に、黒羽が振り返った。
「俺は工藤を知っているよ。そして哀チャンをとても心配している。望みを持つのは悪い事じゃないよ」
先日の喫茶店での返事だった。黒羽は手をひらひらと振って、今度こそ工藤邸を出て行った。
残された新一との間に気まずい沈黙が走る。そうだ、こういう時に新一は何でもない振りをできる男ではなかった。演技力と嘘の上手さは別物だ。
「さっきの、何の話だ?」
沈黙をやぶった新一は、ジャケットも脱がないで冷たい床に立ったまま哀を見つめた。
「別に…。この前偶然会った時の話よ」
気付けば窓の外はもう薄暗い。五月とは言えど、夜は確実に訪れる。
何も言わない新一に対し、哀は薄く笑う。
「何よ、妬いてるの?」
「……悪いかよ」
苦虫を噛み潰したようにつぶやいた新一に、今度は哀が眉を潜める。新一の方がずっと異性に、世間に注目されている人間だ。そんな名探偵でも解けない謎があるのだろうか。
自分の心に眠った望みを彼が知る事はあるのだろうか。
今の工藤新一を、哀はとても好きだ。何年前かの雨の夜、二度目の恋に落ちた。それは本当だった。
「悪くないわ」
哀が答えると、新一はようやく小さな笑顔を見せて、ソファーに腰をかける。
自分にだけ微笑む新一をとても好きだというのに、それでも願いはやまない。江戸川コナンの心を持つ新一に会いたいと、一度でも思ってしまった。
こんな自分が、新一に触れる資格を持てるというのだろうか。
制服のプリーツスカートをぎゅっと握ってうつむく哀を、新一は呼んだ。
「灰原、こっちにおいで」
両手を広げて、哀を呼ぶ。
金縛りにあったように立ちつくしている哀に、新一は柔らかく、そしてどこか意地悪に微笑んだ。
「俺のタイミングで紐解いていいんだろ?」
その表情だけで哀の心は溶けて、ゆっくりと新一に近付き、その腕の中に閉じ込められた。新一の膝の上に横座りになるような体勢で、気を使いながらも全体重を新一に預ける。
新一が普段使っている香水の香りに、心臓が高鳴る。
「あなたって本当にヤキモチ焼きよね」
その昔、小さな姿をした彼が幼馴染を想っていた頃も、こうして嫉妬しては不貞腐れていた。その頃が懐かしくて、ふと笑ってしまった。そうだ、記憶がなくたって新一の本質は変わらない。どちらの彼も、哀は好きだった。
「灰原、あんまり俺を焦らすな」
新一は哀の髪の毛に触れた。黒羽の時とは違う、別の安心感が漂う。こうしていれば自分は新一のものだと確かめられる。
「俺はおまえの事が大事なんだよ」
いつもより低い声でつぶやき、そして哀の唇を塞いだ。全身の鼓動を分け合うような、深くて大人なキスだった。キスの合間に新一の手の平が哀の頬を辿り、背中を撫でる。
もう純粋な少女には戻れない。そもそも最初から純粋じゃなかった。でもだからこそ新一に出会えたのだと思う。
どれだけの時間が経っただろう、キスだけで魂すら交換してしまったような余韻の中、新一が哀を抱きしめながらほっと息をつく。
「…腹減った」
色気のない言葉に、哀は笑う。それが彼なりの誠意の示し方なのだと分かった。笑い合って額をくっつけて、目を閉じる。哀の願いはきっと新一に気付かれているのだと思った。でも何も言わない事も、新一の愛情の示し方のひとつだ。
哀は新一の膝から降りて、キッチンに向かう。夜の時間はまだ終わらない。
(2016.10.15)