最近の工藤新一は悩んでいた。
「工藤君、どうかした?」
ソファーに寝そべって本を手に持つ新一を、哀が背もたれを挟んで見下ろして来る。窓から差し込む光の影になった白い頬がやけに色気を放っているようだ。
「……なんで?」
「だって、全然ページが進んでいないから。眠っているのかと思ったらそうでもないみたいだし」
哀が肩をすくめたように笑い、そのままキッチンへと入って行く。私服である淡い水色のスカートの裾がひらりと揺れたのが視界の端で見えた。春のまどろみが香る日曜日の午後。そんな柔らかな光の中にいるとは思えない感情が新一の脳を支配する。
日本人離れした色素の薄い髪の毛や肌の色、緑がかった瞳に頬に影を作る長い睫毛、すっとした鼻筋にピンク色の唇。そう、それはまるで中学生の青臭い妄想に取り憑かれているような気分で、罪悪感とともに新一は深くため息をつく。もちろん手に持った本の内容が頭に入っているわけがなかった。
一緒に過ごしたい、と告げた雪の季節から四カ月が経っていた。その日を境に哀と会う頻度は格段と増え、新一は時々阿笠邸で夕食を摂る事を続け、そして新一の仕事が落ち着いた時には哀が工藤邸で過ごす事も多くなった。彼女の時間を独占し、彼女の柔らかい頬を撫でて、その唇にキスを落とす。その権限を得た新一は、だけども哀のセーラー服姿を見て、それ以上触れる事を躊躇ってしまった。
その様子を聞いた友人が大声で笑い声を立てた。
「工藤、おまえどこの中学生だよ! もっと大人らしくスマートにしてよ名探偵」
癖っ毛を揺らしながら笑い、挙句の果てに泣き笑いまでいったのか涙を指で拭い再び笑い声を立てた友人は名を黒羽快斗という、大学に入学してからすぐに出会った悪友でもある。ちなみに新一の記憶喪失については、幼馴染で元恋人である毛利蘭も含めて多くの人間が知る事ではないが、ひょんな事から黒羽には打ち明けた事がある。
「いや、だって相手が中学生だぜ? どうすればいいんだよ…、中学校を卒業するまで待つって言えばいいのか?」
「うひゃひゃひゃひゃ!」
久しぶりに会った黒羽は居酒屋の椅子に寄りかかり、甘そうなカクテルを飲みながら笑い続ける。今の彼は箸が転がっても笑えるのだろう。いつ会っても癪に障る男だ。
「工藤さぁ…、それ、ちゃんと哀チャンに確かめたの?」
「確かめるって何を…」
「案外、哀チャンだって工藤とソウイウ関係になりたいって思っているかもしれないだろ?」
「………」
新一が顔を赤くしたのは決してビールに酔ったせいではなく、単刀直入な黒羽の物言いのせいだ。そもそも人の恋人を哀チャン呼ばわりとは何様だ。
本人に確認した事はないが、黒羽快斗は今は亡き怪盗キッドの正体だった。それに気付いたのも出会ってから間もない頃で、彼はキッドキラーと呼ばれる江戸川コナンを当然知っていて、そして探していた。新一の中にいるはずの江戸川コナンを追っていた。悪を許さないはずの自分の小さな分身もきっと怪盗キッドという泥棒に心を奪われていたのかもしれない。彼を見ていると、なんとなくそう思う。
少年探偵団は何度か怪盗キッドに遭遇し、命を救われた事もあったという。つまり黒羽は灰原哀のことも認識して、もしかしたら正体を知った上で新一をからかっているのだ。だからこそ無性に腹が立つ。
「哀チャンだって子供じゃないんだからさ、もっと工藤が歩み寄るべきじゃないかなぁ?」
何気なく言われた言葉の中には重大な真実が潜んでいる事を黒羽自身は気付いているのだろうか。新一は小さくため息をつき、残ったビールを飲み干した。
そうは言っても黒羽の言う通り歩み寄った結果、拒絶されたらどうするというのだ。何よりもそれが一番怖いということを自覚せざる得ない状況に、新一は自宅のソファーで頭を抱えた。
「工藤君、コーヒー飲む?」
カフェインの香りとともに哀の声が降りて来る。頭から手を離して顔を上げると、セーラー服姿の哀がふたつのマグカップを持って立っている。平日の午後6時。仕事が早く終わるとメールで告げると、哀が工藤邸に来てくれた。いつだって彼女の優先順位を奪ってしまう。そんなところに優越感を覚え、もっと彼女に近づきたくなる。
「……飲む。サンキュ」
新一の返事に哀は微笑み、新一にマグカップを渡してから新一の隣に座った。ふわりとシャンプーの匂いが香り、願望とは裏腹に新一は少しだけ哀との距離をおいて座り直す。
「工藤君……?」
もちろんそんな不自然な新一の様子に気付かない哀ではない。
「最近様子がおかしいけれど、どうかしたの…?」
「別に…、どうもしねーよ」
「嘘」
哀の硬い声に新一は一瞬怯んで、何かを修正しようとコーヒーをテーブルに置いて哀を見た。そして驚く。声色からして怒っていると思った彼女の表情は全然違って、涙ぐんだまま哀はまっすぐに新一を見つめていた。
「灰原…」
「帰るわ」
「待ってって、灰原!」
ソファーから立ち上がった彼女の腕を掴み自分に引き寄せる。バランスを崩し、二人してソファーに倒れ込み、まるで彼女を押し倒したような構図になってしまい、ますます新一の中で焦燥感が募った。
「わ、悪い……」
「どうして謝るの?」
とうとう哀の瞳から涙が溢れた。新一はゆっくりと哀を抱きしめるように背に腕をまわし、彼女を身体ごと起こしてソファーの上に向かい合うように座る。
「私はあなたのものなのに」
哀の言葉と共に静寂が広いリビングを襲い、その直後に自分自身の鼓動がやけに大きな音で耳元に響いた。新一は哀から手を離し、やり場の失った手の平をぎゅっと握り、自分の膝の上に置く。
「…頼むから、灰原。そういう事を簡単に言うな」
幼い瞳の中に哀愁を漂わせた彼女を大切にしたくて、守りたくて、でも全てを汚したい瞬間がある。
嘆息し、新一は言った。
「俺がどれだけ我慢しているか、おまえには分からないよ」
「あなただって、私の望むものが何かを分かっていない」
そう言って哀は、硬く握りしめられた新一の手を取り、細い指先で手の甲をなぞった。ぞわぞわと鳥肌に近い感触が新一の心臓を襲い、その隙をついて哀が新一の唇に軽く口付けた。
目を閉じる事も忘れたまま新一が呆然としていると、哀は勝ち誇ったように笑った。
「あなたのタイミングで紐解いてね、名探偵さん」
指先で新一の頬に触れてから、哀は今度こそソファーから立ち上がって工藤邸を出て行った。
残された新一は、未だ手の甲に残る扇情的な感触に心を震わせていた。拒絶されたらどうしようなどと思っていた自分は大馬鹿者だった。先日居酒屋で会った悪友の言葉が脳裏で響く。
そうだ、哀は子供ではないのだ。新一は彼女の全てに心を持って行かれたのだ。魂が惹かれあうように、磁石の異なる極同士のように。
「なんだよ、今の……」
再びソファーの上で頭を抱える。新一の苦悩はまだ続きそうだ。
新一君と黒羽君の出会いについては、pixivさんで「JOKER」というお話を書かせて頂いています。
よろしければそちらもお楽しみ下さいませ。
(2016.9.22)