通い慣れた阿笠邸の玄関のドアを開けると、博士が温かく出迎えてくれた。コナンは靴を脱ぎながら、玄関の奥には人気がない事に気付く。
「灰原は?」
ソファーに座ったコナンの問いかけに、博士はコーヒーを持ってきて、少々さびしげに笑った。
「今朝仮眠すると言ってから部屋から出て来んのじゃ。疲れておるんじゃろう」
そして博士の手から渡された一つの小瓶。そこには、たった一つのカプセルが転がっていた。コナンは二度と出会えない宝物のようにそっとその小瓶を両手で受け取る。
先週に哀から伝えられたのは、この半年間待ち望んでいた言葉だった。解毒剤が完成したと聞き、すぐさま飲みたがったコナンに対し、哀は強く制した。一人の人間がいなくなるにはそれなりの手続きがいる。一週間の時間を使い、江戸川コナンが海外に住む両親の元に戻るという建前でコナンは準備に取り掛かった。
一番胸が痛んだのは、コナンとして関係を築いた人々との別れだった。突然の知らせにクラスメイトは驚き、少年探偵団のメンバーは何か裏があるのではと勘繰ったのだから、コナンと一緒に過ごした時間は着実に彼らに影響を与えたのだろう。そして毛利親子との別れだ。コナンとしては本来の姿で昔から思っていた蘭と再会できるので簡単だと高をくくっていたが、いざコナンに対して涙ぐんだ蘭の姿を見て、今更この子供の生活への未練を持ってしまった。コナンとしてもっと傍にいてやりたかったと思ってしまった。
それを振り切るように彼らと別れ、コナンは一晩工藤邸に泊まり、そして約束の今日、解毒剤を服用する為に阿笠邸にやって来たのだ。
なのに哀の姿が見えないとはどういうことだろう。コナンはコーヒーを啜りながら、窓の外を眺める。外にはいつもの平和な景色が広がっている。この目線の高さで世界を眺めるのは、もう最後だ。
疲れているのかもしれないという哀の状態に小さな罪悪感が芽生える。組織を壊滅してから数週間、平気なそぶりを見せながらも彼女は無理をして最小限の武器を片手に研究を重ねてくれたのだろう。全てはコナンの為に。
彼女はいつだって自責の念に捕われていたから。
だから、解毒剤を受け取る際に伝えようと思っていたのだ。哀への感情は一言ではとても表しきれない。哀に出会わなければ、子供としての生活に狂っていたかもしれない。実際彼女に出会う前の生活はこの小さな身体にそぐわなくて、物事が身体の表面を滑って行くように現実味を帯びなかった。しかし灰原哀が転校してきて、自分の見ている世界を彼女と共有できて、とても心強く思ったのだ。
そして何よりも解毒剤の完成。これは宮野志保の知識をもつ彼女がいなければ、成り立たなかった。
コナンは小瓶に視線を落としながら、消化不良の気持ちが胸に広がるのを感じた。本当は哀に会いたかった。でも感謝を伝えるのは、工藤新一になってからでも遅くない。彼女が思っている以上に、そして自分でも驚くほどにコナンは灰原哀を必要としていて、灰原哀を守りたかったのだ。
「博士、元に戻ったら灰原にちゃんと礼を言うよ」
「ああ、それがいい」
地下室を気にしながら、深くうなずいた博士は、哀からの伝言をコナンに伝えた。
解毒剤には痛みを軽減するために催眠作用の含まれる成分が入っている事、その為服用してから半日以上は眠り続けてしまう事。急激な骨格と筋肉の成長で痛みが残る可能性がある事。しばらくは哀の元に通って欲しいという事。
それを聞きながら、コナンは思う。新一に戻っても灰原哀との縁が途切れるわけじゃない。
博士に礼を言って、コナンはソファーから立ち上がり、玄関を出た。春の温かい風がコナンの頬を撫でる。背の高い工藤邸の門をどうにか開け、もう一度振り返る。
この世界にさよならを、そして明日からの世界の入口に導かれるように、コナンは工藤邸のドアを開けた。